第1863日目 〈マタイによる福音書第17章:〈イエスの姿が変わる〉、〈悪霊にとりつかれた子をいやす〉withiPhone5、すは昇天か?〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第17章です。

 マタ17:1-13〈イエスの姿が変わる〉
 ──死と復活の予告から6日後、イエスは弟子のなかからペトロ、ヤコブとヨセフ兄弟を選んで従わせ、高い山へ登った。そこでイエスの姿は変容した。顔は太陽の如く輝き、衣は光のように白くなり。そうしてかれの周囲にモーセとエリヤが現れ、3人は語り合った。
 驚喜するペトロたち。かれらの前に光り輝く雲が現れて、イエスとモーセとエリヤの姿を隠した。その雲のなかから声が響いた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」(マタ17:5)
 やがて雲は消え、モーセとエリヤの姿も消えた。雲のなかからの声に恐れてひれ伏すペトロたちにイエスが触れて声をかけたとき、もうそこには雲はなく、自分たち4人以外の人の影はなかったのである。
 ──下山する際、イエスはペトロたちにいった。人の子が復活したあとまでこのことは誰にも語ってはならない。弟子たちは了解した。
 どうして律法学者たちは、まずエリヤが始めに来るはずだ、などというのでしょう、と、下山しながら弟子たちがイエスに訊いた。これに答えてイエスの曰く、たしかにエリヤが先に来てすべてを元通りにするのだ、と。続けて、──
 「言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々はこれを認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」(マタ17:12)
 これを聞いて弟子たちは既に来たエリヤが洗礼者ヨハネを指しているのだ、と悟った。

 マタ17:14-21〈悪霊にとりつかれた子をいやす〉
 或る人がイエスに、悪霊に取り憑かれたわが子を癒やしてください、と請うた。あなたのお弟子さんたちでも追い払うことができなかったのです。
 イエスは弟子たちを詰った。いつまでわたしはあなた方と一緒にいればいいのか。わたしはいつまであなた方に我慢しなくてはならないのか。そうしてイエスは件の人の子を癒やした。
 そのあと、弟子たちがイエスに訊ねた。どうして自分たちはあの子を癒やせなかったのでしょう、。イエスは、あなた方の信仰が薄いからだ、と答えた。続けて、──
 「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなた方にできないことは何もない。」(マタ17:20)
 ※マタ17:21欠。

 マタ17:22-23〈再び自分の死と復活を予告する〉
 自分は人々に引き渡されて殺されるが、3日経ったあとで復活する。そうイエスはいった。弟子たちはこれを聞いて悲しんだ。

 マタ17:24-27〈神殿税を納める〉
 カファルナウムにて。徴税人がペトロのところへ来て、お前の先生は神殿税を納めないのか、と訊ねた。勿論、納めますよ。ペトロはそう返事したあとイエスのところへ行き、このことを伝えた。
 イエス;ペトロよ、どう思う。地上の王は税を誰から取り立てる? 自分からか、他人からか。
 ペトロ;他人からです、先生。
 イエス;そうだ。しかしかれらをつまずかせるのはよくない。ペトロよ、湖で釣りをしてきなさい。最初に獲れた魚の口にスタテル銀貨が入っているから、それをわれら2人分の神殿税としてエルサレム神殿へ献納しなさい。
 ペトロはそうした。

 ユダヤ人の成年男子は毎年、エルサレム神殿への献納金として2ドラクメを支払うことを義務とされていた。これを神殿税という。「ドラクメ」はローマの通貨単位でヘブライに於ける「デナリオン」と同価。即ち2ドラクメは2デナリオンであり、労働者の2日分の賃金である。
 いまのわれらの感覚でなくても、相当に高い徴税額である。馬鹿にはならぬ額だ。すくなくとも、気軽に支出することを首肯できるようなものではない。当時のユダヤ人はたしかローマ総督とユダヤ領主にそれぞれ税を支払っており、各種関税も課せられていたから、かれらの収入全体に占める徴税率は如何程であったことか。
 魚の口のなかにある銀貨。新共同訳聖書では単に「銀貨」と記すが、岩波やフランシスコ会、個人など他訳を参照して「スタテル銀貨」とした。これはイエスとペトロ2人分の神殿税となったのだから、スタテル銀貨1枚で2ドラクメの倍に相当する。
 イエスが変容した山はガリラヤ湖南西、カファルナウムから約35キロ程に位置するタボル山と伝えられる。が、一方でガリラヤ地方北部のフィリポ・カイサリアから更に北東、ダマスコから西へ約20キロ程離れたヘルモン山である、ともいう。イエスが公生涯の過半を送った地方にあるゆえ、伝承も様々に生まれよう。なお、いずれの山も旧約聖書に何度も登場した山である。
 この「高い山」に現れたモーセとエリヤは、律法と預言者の象徴として出る。イエスを預言者として見、律法の完成者として見る、という、<イエス=メシア>という概念をあざといまでに強調する点が特徴な「マタイによる福音書」らしい表現である、と思う。まぁ比較的喩えのわかりやすい/捉えやすいヴィジョンではある。

 本日の旧約聖書は、マタ17:5と申18:15。
 「これに聞け。」(マタ17:5)
 これの典拠は、
 「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申18:15)



 そろそろ2年縛りも終わることだし、iPhoneの機種変更を検討している。5Sになるのか、6になるのか、6Plusになるのか、それはまだわからぬ。
 ただ、バッテリーが持ってくれることを望む。朝は97%であったのが会社に到着したら45%になっていて、昼休憩のときには3%になっていた、とか、そんな事態が避けられることが第一。いくらなんでもへたりすぎだろう、と思うて、モバイル・バッテリーにつないで充電を始めると、電池の残量表示は51%になっていたりする。こんなマカフシギな現象と無縁になってくれさえすれば、まずは良い。
 今日も今日とて、残量が一桁になっていたから充電しようと思うてケーブルをつないでみれば、まるで認識しなかった。ほら、画面に電池残量とケーブルを挿せ、という絵が表示されるじゃない。充電ケーブルを挿した途端、<ケーブル挿せ>の絵が消えて、まるで充電される様子がない。いよいよバッテリーが昇天したか。加えてケーブル接続口の接触不良も同時に発生したか。笑えない状況に追いこまれた気持ちがしたものだ。
 が、何度か絶望半分でケーブルを挿し治す行為を繰り返していたら、天がわが意を汲んだか、それとも憐れんだか、単なる偶然、iPhoneが気紛れを起こしたか、いずれにせよ再びいままで通り充電されて、いまは電池残量100%を示している。明日はカメラのキタムラかAppleStoreへ朝から駆けこまなくてはならないかなぁ、と懸念していて、たしか市内にはiPhoneの修理を請け負っている専門業者がいたっけな、とキャリアのショップでもらったチラシを探していたので、安堵の溜め息をついて胸を撫で下ろしているところである。
 しかし、今宵の一件を以てわたくしは2年縛りが終わったらすぐに機種変更することを決意した。出ると噂されるiPhone6の通常画面サイズなど待っていられない。だからそれまでは、わがiPhone5よ、へそを曲げたりしないでなんとか持ちこたえてくれ。わたくしはいまお前に昇天されたらまったく身動きができず、数多の不義理を犯すこととなり、かつ要らぬ債鬼に追われることとなるのだから。──嗚呼、わたくしにルードヴィヒ2世のような人物がいたのなら!◆

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