第1864日目 〈マタイによる福音書第18章:〈天の国でいちばん偉い者〉、〈罪の誘惑〉他with残されたMVを観て、ぐったり肩を落とす。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第18章です。

 マタ18:1-5〈天の国でいちばん偉い者〉
 弟子たちがイエスに、天の国でいちばん偉いのは誰ですか、と訊いた。イエスは1人の子供を呼び集めて、弟子たちにいった、──
 誰であれ、心を入れ替えて子供のようにならねば天の国には入れない。それが誰であれ、自分を低くして子供のようになる者が天の国ではいちばん偉いのだ。わが名ゆえに子供を受け入れる者は即ちわたしを受け入れるのである。

 マタ18:6-9〈罪の誘惑〉
 だがしかし、と続けてイエスはいった。この、わたしを信じる小さな者の1人をつまずかせる者は不幸である。首に大きな石臼を掛けられ、深い海に沈められる方がマシなのだ。
 もし片方の手や足があなたをつまずかせるなら、その手や足は切って棄ててしまえ。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、その目を抉り出してしまえ。五体満足のまま永遠の火が燃え盛る地獄へ投げこまれるぐらいなら、たとい片手片足、片目だけであっても命あって生き永らえる方がマシである。

 マタ18:10-14〈「迷い出た羊」のたとえ〉
 これら小さな者の1人と雖も軽んじてはならない。かれらの天使たちは皆天の国でわたしの父の顔を仰いでいるのだから。これらの小さな者が1人でも滅びてしまうことは、天の父の望むところではない。
 ※マタ18:11欠。

 マタ18:15-20〈兄弟の忠告〉
 あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、2人きりの所であなたは兄弟を諭しなさい。忠告を聞き入れたら、あなたは兄弟を得たことになる。
 もしそれでも兄弟が忠告を聞き入れないなら、1人か2人、他に連れて行って改めて兄弟を諭しなさい。あなたを含めて2人か3人の証人の口からすべてのことが確定されるようにである。
 それでも兄弟が忠告を聞き入れないようなら、教会へ申し立てなさい。それでも駄目なら、もうあなたは兄弟を異邦人や徴税人同様に見、扱った方がいいでしょう。
 はっきりいうておくと、あなた方が地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれる。また、どんな願い事であれ、あなた方のうち2人が心を1つにして祈り求めたならば、わたしの天の父はそれをかなえてくれる。というのも、2人乃至は3人がわが名によって集まるところには、必ずわたしがいるからだ。

 マタ18:21-35〈「仲間を赦さない家来」のたとえ〉
 ペトロがイエスに、何回までなら兄弟を赦してよいのでしょう、と訊いた。それにイエスが答えて曰く、7回どころか7の70倍までも、と。
 この場合、──とイエスがいった──天の国ではこのように例えられる。或る王が家来たちに借金を清算させようとした。決済が始まったとき、1人の家来が王の前に連れて来られた。かれは10,000タラントンの借金を抱えている。王は決済を迫った。が、家来の必死の嘆願に憐れみを感じて、王はその家来の借金を帳消しにしてやった。
 ところがこの家来は城外で、自分に100デナリオン借金している仲間に会った。家来はなにがなんでもお金を返してもらおう、と相手の首を絞め付けたりするだけでは物足りず、完済されるまでの間牢へ閉じこめてしまったのだ。このことは王の耳に入り、件の家来を呼び出して、こういった、──
 「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」(マタ18:33)
 斯くして家来は、自分が仲間にしたのと同様、借金が完済されるまでの間、牢へ閉じこめられてしまったのである。
 このように、──とイエスがいった──あなた方1人1人が兄弟を心から赦さないならば、天の父もあなた方に対してこの喩え話の王のようにすることだろう。

 マタ16:19にてペトロの専権として与えられたことが、マタ18:15-20〈兄弟の忠告〉では弟子たちにも与えられている。が、それでもペトロの立ち位置は変わらぬだろう。というのもかれは天の門の鍵を与えられているからだ。
 本項に於いて、教会への申し立ても空振りに終わったなら、もはや兄弟を同胞とさえ見做すな、という。が、これを厳しい、というのは当たらぬだろう。兄弟にはこれまで何度となく赦しを求める機会があったのだろう。しかし、厳しい処置であることは事実として否定ができない。血のつながり。それが呼び起こす<情>からは、なかなか自由になることができないからだ。われも例外に非ざる者なり。
 憐れみによって借金がチャラになる主従関係を諒とするか、如何に思うかは別として、自分の借金が誰彼の慈悲によって精算されたなら、自分に借金している相手へも寛容となるべきだ。近親者の犯した罪は、それが何度繰り返されたものだったとしても、憐れみを以て示し、慈悲の態度を示せ。自分に示された憐れみ、慈悲を、他者にも示せ。
 ──これは相互扶助の教えだ。明後日に読むぶどう園の喩えが社会保障のきっかけとなるならば、この王と家来の借金の話は相互扶助のきっかけだったのではないか。そう考えてしまう。
 なお、当時の労働者の1日分の賃金は1デナリオンであった。6,000デナリオンで1タラントンとなる。仲間の借金100デナリオンは100日分の労働賃金に相当し、家来の借金10.000タラントンはその60万倍──今日のわれらの通貨に換算してこれが幾らになるか不明だが、いずれにせよ結構な額であることに間違いはないだろう。家来がいったいどうやって、なにをしてこの巨額の借金を負債として抱えるに至ったのか。いちおう小説家の端くれとしては非常に関心がある。

 本日の旧約聖書はマタ18:16と申19:15。
 「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」(マタ18:16)
 これの典拠は、
 「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」(申19:15)



 先日スペースシャワーTVで放送されていたSKE48特集を、この原稿を書きながら観ていたのだけれど、そのあまりもの変貌ぶりにショックを隠しきれず、なんだか切なくなってしまった。
 最初と最後ではまさに<死屍累々>の言葉がぴったり! 得たものも勿論大きいが、失ったものも大きすぎる。映像が残る、というのは残酷であるな。
 疲労と寂寥が綯い交ぜになったものを、いま全身に感じているよ。◆

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