第1867日目 〈マタイによる福音書第21章:〈エルサレムに迎え入れられる〉、〈いちじくの木を呪う〉他with遅刻だ、遅刻だ、遅刻だよぉ!?〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第21章です。

 マタ21:1-11〈エルサレムに迎え入れられる〉
 イエスはガリラヤ地方からエルサレムへ上った。その際、近郊の町ベトファゲにて弟子2人に、乗るためのろばを調達させた。もし誰かに会って咎められたら、主がこのろばを必要としているのです、といいなさい。
 かれらが引いてきたろばにイエスは乗って、州都エルサレムへ入った。人々はイエスをダビデの子と歓呼(ホサナ)して迎え、道行く先に自分の服を敷き、折った木の枝を敷いた。
 「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られる方に祝福があるように。/いと高きところにホサナ。」(マタ21:9)
 或る人が問うた、これはどういう人だ、と。或る人が答えた、この人はガリラヤ地方から来た預言者イエスである、と。

 マタ21:12-17〈神殿から商人を追い出す〉
 イエスは都へ入ると、神殿へ行き、境内で行商中の商人たちを追い出した。わたしの家は祈りの家であるべきなのに、あなた方は強盗の巣にしている、といって。
 そのあと、境内にいた目の見えない人、体の不自由な人が寄ってきて、イエスはかれらを癒やした。また、境内にいた子供たちがイエスに向かって、ダビデの子ホサナ、と歓呼した。
 この様子に腹を立てた祭司長たちと律法学者たちがイエスに詰め寄り、子供たちの叫びが聞こえないのか、といった。勿論、聞こえる。そうイエスは答えて、かれらに返した。あなた方こそ、幼子や乳飲み子の口に賛美歌を歌わせた、と詩篇にいうのを読んだことがないのか。
 そうしてイエスはエルサレムを出て、ベトファゲの町に泊まった。

 マタ21:18-22〈いちじくの木を呪う〉
 翌る朝早く、エルサレムへの道すがら、空腹を覚えたイエスは1本のイチジクの木を見附けたが、葉を付けるばかりで実は生っていなかった。イエスは怒って、イチジクの木を呪って枯らしてしまった。
 弟子たちは驚いて、どうして枯らしたのですか、と訊いた。イエスは答えて曰く、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、(中略)そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタ21:21-22)

 マタ21:23-27〈権威についての問答〉
 神殿にて説教中のイエスに祭司長や民の長老たちが、いったいなんの権威があってこのようなことを行っているのか、と訊いた。それにイエスは返して曰く、わたしもあなた方に訊こう、答えられなければわたしも答えぬ、と。
 イエスは訊いた。ヨハネの洗礼は天からのものか。それとも、人からのものか。
 祭司長や民の長老たちは答えた。わからない。
 洗礼が天からのものであるといえば、ヨハネを信じられなかったことを詰問され、人からのものであるといえば、ヨハネを預言者と信じる民衆を敵に回すことになるので、祭司長や民の長老たちは、わからない、と答えざるを得なかったのだ。

 マタ21:28-32〈「二人の息子」のたとえ〉
 父が息子2人にそれぞれ、ぶどう園に行って働け、といった。否、と兄はいい、諾、と弟は答えた。が、考え直して兄は行き、弟は行かなかった。兄弟のどちらが父の望みに適う行動をしただろうか。
 イエスはそんな喩え話をして、祭司長や民の長老たちに問うた。かれらは、兄の方だ、と答えた。イエスはいった、──
 「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタ21:31-32)

 マタ21:33-46〈「ぶどう園の農夫」のたとえ〉
 イエスは祭司長や民の長老たちに、別の喩え話をした。
 或る家の主人がぶどう園を造り、設備を整えて、農夫たちに貸し与えて自分は旅に出た。やがて収穫期が近附き、主人はぶどう園の収穫を受け取ろうと数人の僕を派遣した。ぶどう園を預かっていた農夫たちはかれらを殺し、また半身不随にした。このことがもう一度繰り返された。主人の息子が最後に派遣されたが、やはり殺された(「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」マタ21:39)。
 イエスは訊いた。主人が旅から帰ってきたら、この農夫たちをどう扱うだろう。
 祭司長や民の長老たちが、殺して一掃したあともっと誠実で真面目な農夫を雇うに違いない、と答えた。
 イエスはいった。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。/これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(マタ21:42-44)
 祭司長やファリサイ派の人々は、イエスが自分たちを揶揄していることに気が付いた。かれらはイエスを捕らえようとしたが、かれを預言者と信じる民衆を敵に回すことを恐れて、できなかった。

 「ホサナ」は「救いを求める」という意味だが、年を経るに従って歓呼を示す感嘆詞へ変化していった。また、マタ21:42「聖書」とはむろん、旧約聖書の内の一冊をここでは指す。
 イエスのエルサレム入りはソロモン王のエルサレム入城の場面を思い出させる(王上1:33-46)。偶然か、倣ったか、創作か。イエスを偉大なる存在と信じて疑わぬ福音書の著者が、この場面の執筆の際なにを思うていたか、どんな胸の高ぶりを覚えていたか。そんなことを考えると、わたくし自身もちょっとワクワクしてくる。この場面が事実で、しかもエルサレム入りのシチュエーションが同じうすることが偶然でないならば、イエスなり著者なりの目に触れる範囲に「列王記」があってそれを読むことができたことを、ここは暗に示唆していよう。
 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(マタ21:22)とは概ね正鵠を射た教えと思うし、特に意義を表明するつもりもないけれど、しかし空腹を満たせなかったばかりにイチジクの木を枯らしたあとで出て来る言葉ではないように思う。自分のわがままや短気の結果をごまかすために、こんな教えでカモフラージュしているように思えるのだ。
 事実の隠蔽、論旨のすり替え。こんな行状が隠されることもなく記されている点に、わたくしは聖書のおおらかさ、呑気さを感じる。新約聖書のおもしろさ、イエスの人間味を垣間見ることのできる、うれしい挿話である。
 昨日のぶどう園の喩え話には眉を潜めさせられてちょっと感想もエスカレートしてしまったが、今日のこのイチジクの木を呪う挿話は非常に面白いと思う。
 なお、本章に於いてわたくしが気に入っているのは、〈権威についての問答〉であります。

 本日の旧約聖書はマタ21:5とイザ62:11,ゼカ9:9、マタ21:9と詩118:25-26、マタ21:13とイザ56:7、マタ21:42と詩118:22-23。
 「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」(マタ21:5)
 これの典拠は、
 「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。」(イザ62:11)
 「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。」(ゼカ9:9)

 「ダビデの子にホサナ。/主の名によって来られる方に、祝福があるように。/いと高きところにホサナ。」(マタ21:9)
 これの典拠は、
 「祝福あれ、主の御名によって来る人に。」(詩118:26)

 「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(マタ21:13)
 これの典拠は、
 「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザ56:7)

 「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。/これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。」(マタ21:42)
 これの典拠は、
 「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。/これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。」(詩118:22-23)



 夢のなかでと或る同僚に後ろから羽交い締めに等しいハグをされて、うれしくてしあわせだったけれど息苦しくて、窒息寸前の状態になったところで、今朝は目が覚めました。
 様々な感情が綯い交ぜになった「はあ……」という溜め息を吐いたのですが、時計を見たら7時48分! 見事なまでの遅刻モードだ。しかし遅刻したら迷惑を掛けてしまうので(ただでさえ入電件数平均900/日なのだ!)、迷わず最寄り駅からタクシーを使いましたよ。ええ。
 でも気になるのは夢のなかの同僚以上にタクシー料金がいつもより90円高かったこと。ふむぅ。◆

共通テーマ:日記・雑感