第1872日目 〈マタイによる福音書第26章1/2:〈ユダ、裏切りを企てる〉、〈主の晩餐〉他withわが肉体の故障、ほぼすべての元凶はここにあり。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第26章1/2です。

 マタ26:1-5〈イエスを殺す計略〉
 ──すべてを語り終えたイエスは弟子たちに告げた。人の子は2日後の過越祭の日、十字架に掛けられるために引き渡される。
 その頃、祭司長たちや民の長老たちが大祭司カイアファの屋敷でイエス捕縛と殺害について相談していた。過越祭を祝うためにエルサレムへ集まってきた民衆が騒ぐと厄介なので、その日にイエスを捕らえるのはやめよう、とかれらは決めた。

 マタ26:6-13〈ベタニアで香油を注がれる〉
 エルサレムとはオリーブ山を挟んで反対側にある町ベタニアで、イエスは重い皮膚病を患うシモンという人を見舞った。そのとき、1人の女が、香油が入った高価な壺を持ってきて、イエスの頭に香油を注ぎかけた。それを見咎めた弟子の何人かが、どうしてそんな無駄遣いをするのか、それを売って貧しい人へ施しを行えばいいのに、と詰った。
 その人を困らせてはならない。イエスはそういった。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれたのだ。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタ26:12-13)

 マタ26:14-16〈ユダ、裏切りを企てる〉
 弟子の1人、イスカリオテのユダは銀30枚でイエスを裏切ることに決め、祭司長たちへイエスを引き渡す好機を窺っていた。

 マタ26:17-25〈過越の食事をする〉
 除酵祭の第1日、弟子たちが過越の食事はどこで摂るか、とイエスに訊ねた。イエスはエルサレムに住む或る人の家を指定した。弟子たちはその家で過越の食事の支度を調えた。
 その日の夕方、イエスは12人の弟子たちと食事をするため、卓に着いた。と、食事中にイエスがいった、──
 「『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。(中略)わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』」(マタ26:21,23-24)
 企てがバレたか、と猜疑に駆られたユダは、まさかそれは自分のことでしょうか、と訊いた。イエスは、それはあなたがいったことだ、と答えるだけだった。

 マタ26:26-30〈主の晩餐〉
 食事中、イエスはパンを手にして讃美の祈りを唱えたあと、それを12人の弟子たちへ分け与えた。これを受け取って食べなさい、これはわたしの肉である。
 ぶどう酒を注いだ杯を回して、いった。この杯を受け取って飲みなさい。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタ26:28)
 イエスはいった、父の国であなたがたと再びこうして会うまで、わたしはぶどうの実から作られた飲み物を口にすることはない、と。
 それからかれらは讃美の歌をうたって、オリーブ山へ行った。

 マタ26:31-35〈ペトロの離反を予告する〉
 イエスはいった。今夜、あなた方は皆わたしにつまずく。が、わたしは復活したあと、あなた方よりも一足先にガリラヤへ行っている。
 ペトロは進み出て、誰があなたにつまずこうともわたしはつまずいたりしません、といった。
 イエスはペトロにいった、──
 「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マタ26:34)
 ペトロはこれを否定した、共に死ぬことがあろうともあなたを知らないなどとはいいません、といって。他の弟子たちも、ペトロと同じようにいった。

 遂にイエスの公生涯で最後の2日間が始まった。イエスについてわれらの知る挿話が本章では目白押しだ。ペトロの否認の予告、イスカリオテのユダの裏切り、ベタニアでの香油注ぎなど、いつかどこかで、なんらかの形で接したことがあるような挿話が並ぶ。ユダの裏切りについては太宰治の短編「駈込み訴え」で知る人も多かろう。が、なんというても本章でいちばんの目玉というべきは、マタ26:17-30にて描かれる<最後の晩餐>であろう。これこそ、古今東西ありとあらゆるアーティストが取り挙げた題材であり、また種々の媒体で紹介される場面である。
 イエスと12人の弟子たちが過越の食事を摂り、主の晩餐──〈聖体の制定〉/〈聖体拝領〉が行われた場所について、本章は特に知らせることがない。が、並行箇所であるマコ14:13-16、ルカ22:8-13にはそれが記されている。即ち、エルサレムの、水瓶を運んでいた人の主人の家の2階である。ここが<最後の晩餐>の舞台となった(『聖書大図鑑』のエルサレム地図によれば、それは大祭司カイアファの屋敷の目と鼻の先である)。どちらの福音書に於いても場所を提供した人々の名は記されていない。
 名が記されていない、といえば、ベタニアにてイエスへ香油を注ぎかけた女についても同じだが、こちらは並行箇所の一つ、ヨハ12:3にて「マリア」という名が与えられている。ルナン『イエス伝』でマリアは前節に出るマルタの妹、イエスが死者のなかから甦らせたラザロの姉妹である、という(余談だが、わたくしがラザロの名とエピソードを知ったのは、スティーヴン・キングの哀切極まりない長編『ペット・セマタリー』に於いてであった)。そこでは重い皮膚病患者シモンは登場せず、代わってこのラザロがいる──病によって一旦は命を落として甦ったラザロが。まるで香油注ぎの場面には、重い病人の存在が欠かせない、とでもいうかのように。イエスにベタニアの町を訪問させる理由として、どうしてもシモンやラザロのような重い病人が町にいることが必要であった、とでもいうかのように。ラザロとマリア(とマルタ)が兄弟姉妹であるとなれば、本章に於けるシモンと女も兄妹となるのだろうか。
 イエスを預言者と信じる民衆がエルサレムへ集まる過越祭の日にイエスを捕らえるのは、祭司長たちにとっても民の長老たちにとっても、即ちイエス殺害を目論む人々にとって、自分たちの立場を危うくする行為だった。その日を避けて逮捕しよう、とされたのは当然の成り行きだろう。それを根本から揺さぶったのが、イスカリオテのユダの裏切り。結局それがかれらの計画を変更させた。敢えて過越祭の日に逮捕することになったのだ。ユダがどのような行状の持ち主かは別として、かれらにとってはイエスの弟子たちのなかから、しかも自ら進んで師の引き渡しを持ち掛けてきた者がいた、ということが重要だった。これで、イエス逮捕の大義名分はいくらでも付けられる、とでも考えたのだろう。
 ところで、イエスがユダに投げた言葉「それはあなたのいったことだ」とは、どのような意味だろう。言葉を噛みしめつつ考えると、結構そら恐ろしい意味のように感じるのだが……。

 本日の旧約聖書はマタ26:31とゼカ13:7。
 「『わたしは羊飼いを打つ。/すると、羊の群れは散ってしまう』」(マタ26:31)
 これの典拠は、
 「万軍の主は言われる。/羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。」(ゼカ13:7)



 肩も背中も腰もバキバキなのだ。すべてはこの重量約7.5キロのリュックゆえである。時々強烈な痛みや怠さを訴えたくなるすべての元凶。
 本音をいえば、こんなに重い荷物を持ち歩きたくなんて、ない。1日の遅滞もなくこのブログを終わらせたい、と願ういちばんの理由は、このほぼ毎日背負っている荷物から来る体の故障と無縁の日々を送りたい、というただその一点のみ。全部、資料を電子書籍化させようとしない出版社が悪いんだ、と、こっそり責任転嫁。
 さあ、ブログの完結が先か、体が壊れるのが先か。その顛末をきみよ、じっくり地獄で見届けてくれ。◆

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