第1887日目 〈マルコによる福音書第1章:〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉、〈イエス、洗礼を受ける〉他with病より癒えたる者の神への聖なる感謝の言葉〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第1章です。
 ──神の子イエス・キリストの福音の始め──

 マコ1:1−8〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉
 預言者イザヤ(とマラキ)の言葉──わたし主はあなたより先に使いを遣わし、来たるあなたのために準備をさせよう。荒れ野で叫ぶ者の声が聞こえる、曰く、主の道を整えてその道筋をまっすぐにせよ──。
 その言葉の通り、まず洗礼者ヨハネがイエスに先立ってユダヤに現れた。かれはヨルダン川沿岸の荒れ野にて悔い改めの洗礼を宣べ伝えて奨励し、ユダヤの全地方とエルサレムからやって来た数多のユダヤ人に洗礼を授けた。ユダヤ人は罪の告白をした後、ヨハネから洗礼を受けた。
 わたしよりも優れた方があとから来られる。そうヨハネはいった。わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方は聖霊によってあなたたちへ洗礼を施す。

 マコ1:9−11〈イエス、洗礼を受ける〉
 その頃、ガリラヤ地方の小村ナザレからイエスという男がヨルダン川の方へ来た。ヨハネから洗礼を授かった後、岸へ上がったイエスは天から自分の方へと降ってくる霊を見、天からの声を聞いた。その声に曰く、あなたはわたしの愛する子、わが心にかなう者、と。

 マコ1:12−13〈誘惑を受ける〉
 霊により荒れ野へ導かれたイエスはそこで40日にわたって断食した。その間、サタンがかれを様々に誘惑したが、イエスはそれに屈しなかった。野獣がかれを食い殺そうと狙ったが、天使たちがこのイエスを守った。

 マコ1:14−15〈ガリラヤで伝導を始める〉
 ヘロデ・アンティバスによってヨハネが捕縛されると、イエスはガリラヤ地方へ帰り、自身の教えを宣べ伝えるようになった。かれは神の福音を説き、神の国の到来を告げた。

 マコ1:16−20〈四人の漁師を弟子にする〉
 ガリラヤ湖北端の岸辺を歩いていたイエスは、湖で網を打って漁をするシモンとアンデレの兄弟に出会った。かれらはガリラヤ湖に面した町ベトサイダの出身で、シモンは既に結婚してその家には姑が同居していた。イエスは兄弟の方へ近寄って、自分に従いて来るように、と声を掛けた。あなた方を、人間を漁る漁師にしよう。兄弟はその場で網を捨て、イエスに従った。
 また、そこから少し歩いてゆくと、今度はゼベダイの息子ヤコブとヨハネ兄弟に出会った。かれらは舟のなかで網を修繕していた。イエスは兄弟たちの方へ近寄って、自分に従いて来るように、と声を掛けた。兄弟は舟から降り、その場にいた父や雇い人たちをあとに残して、シモンたちと同じようにイエスに従った。

 マコ1:21−28〈汚れた霊にとりつかれた男をいやす〉
 イエスと4人の弟子たちはガリラヤ地方西北端の町カファルナウムへ向かい、安息日にそこの会堂で教えを宣べ伝えた。その様子に、会堂へ集った人々は大いに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてイエスが教えたからだ。
 ちょうどそのとき、その場に悪霊に取り憑かれた男がいて、叫んだ。どうかナザレのイエスよ俺に構うな、滅ぼしに来た者お前の正体はわかっている、神の聖者だ。
 この者から去れ。そうイエスがいった。すると、汚れた霊は男を痙攣させて、大きな叫び声をあとに残して男の体から出ていった。
 その光景を目撃した人々は驚き、これは新しい教えだ、この方の言葉には悪霊さえ従うではないか、と囁き合った。この出来事はたちまちのうちにガリラヤ地方一帯へ広まったのである。

 マコ1:29−34〈多くの病人をいやす〉
 イエスたちはベトサイダの町へ戻り、病床にあるシモンの姑を見舞った。イエスが彼女の手を取って起こすと、姑の病気はすっかり癒えた。彼女は感謝をこめて一同をもてなした。
 その日の夕刻、町の人々が病人や悪霊に取り憑かれた人たちを連れて、イエスの許へやって来た。イエスは病気の人たちを癒やし、また悪霊を追い出してなにも喋らせなかった。悪霊はイエスの正体を知っていた。

 マコ1:35−39〈巡回して宣教する〉
 朝まだき、イエスは人里離れた場所へ行き、1人祈っていた。そこへシモンたちが来て、皆が探しています、といった。イエスはかれらにいった。近くの町や村に行って宣教しよう、わたしはそのために来たのである。
 そうしてイエスは4人の弟子を伴ってガリラヤ全土の会堂を巡り歩き、人々を癒やし、悪霊を追い出すことに精を尽くした。

 マコ1:40−45〈重い皮膚病を患っている人をいやす〉
 或るとき、イエスの許へ重い皮膚病を患う人が来て、御心ならばわたしを清くすることができます、と懇願した。イエスはその人に手を伸ばして触れ、こういった。よろしい、清くなれ。するとたちまちその人の重い皮膚病は癒やされた。
 イエスはその人を立ち去らせる際、このことは誰にも話したりしないように、と厳しく言い置いてから、こう続けた。祭司のところへ行って皮膚病が治った体を見せ、モーセの定めに従って清めの献げ物をささげて人々へ証明しなさい。
 が、その人はイエスの許を辞去するや自分のみに起きたことを町の人々に語って聞かせた。最早イエスはどの町にも正面から堂々と入ることが難しくなってしまい、郊外に居場所を求めることを余儀なくされた。それでも人々は彼方此方からイエスの許へ押し掛けた。

 この当時、きっとイエスは新しい宗教の創始者としても、福音の伝道者としても、世間には認知されていなかったろう。人々の目にイエスは、非常に優れた民間療法士として映ることが専らだったのではなかったか。そうした人物が施す癒やしの技術の評判は本人が望まずとも広まってゆくものだ。
 いまもむかしもクチコミは情報拡散の要である。ただ情報を伝播する手段が異なるだけのことだ。それまでひっそりと活動していたのが、或る出来事乃至は或る人物の発信を契機に自分を取り巻く環境がすっかり変容してしまい、公然とした活動が妨げられる/支障が生じる、という点で、この段階ではイエスもまた被害者かもしれぬ。既にイエスの評判はカファルナウムの会堂での一件によってガリラヤ地方の隅々にまで伝えられていた。
 が、マコ1:40に於ける皮膚病患者はイエスの評判を後押しすると共に、その活動に制限を加えたことで記憶に留めてよい存在である。もっとも、それによりイエスの評判が高まって江湖の口にのぼるようになり、その存在と技が噂され、やがてはファリサイ派や律法学者の耳に入って敵対し、殺害計画・ゴルゴタの丘に於ける処刑へ至る連鎖反応が始まるのだけれど、その端緒に位置する者としてやはりこの皮膚病患者は記憶するに値しよう。
 カファルナウムの悪霊に取り憑かれた人々とこの皮膚病患者は或る意味で、イエスの公生涯のファースト・シーンの執筆者であり、磔刑に至る未来に舵を切らせた注目すべき者たちである。

 本日の旧約聖書はマコ1:2とマラ3:1,マコ1:3とイザ40:3,マコ1:44とレビ14:2−32。



 病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌;ベートーヴェンが弦楽四重奏曲第15番イ短調Op.132は第3楽章の楽譜に記した言葉である。これを本稿の末尾にわたくしも──当事者ではないけれど──書き留めたい。一時は悲しみに暮れたけれども家族の病気は(当面は)癒やされた。予断は許さぬけれども、安堵、そうして感謝。
 父祖の仏前に、庭のお稲荷様に、神社に祈ったのだ。特にこれといった信仰を持つわけでもないし、そんな意味では甚だ自分勝手なお願いではあるけれど、子供の頃から日常に溶けこんできた行いをより篤く、より深くして病人の回復を祈るのは当然至極であろう。それが結果かは別として、なべて常態に戻り、わたくしもこのようにして小さな文章を綴るだけの気持ちを取り戻すことができている。これを安堵、感謝といわずになんといおうか。
 まだ誰もが道の果ての開拓地へ赴くのは早過ぎる。まだなにも為し得ていないのだ。わが両の腕から奪ってゆくのはしばらく先延ばしにして、この日常を維持させてほしい。頼む。◆

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