第1888日目 〈マルコによる福音書第2章:〈中風の人をいやす〉、〈レビを弟子にする〉他with教え子、日本を去る。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第2章です。

 マコ2:1-12〈中風の人をいやす〉
 数日後、イエスは再びカファルナウムの町に来た。それを知るや町の人々はこぞってイエスのいる家に詰め掛けた。戸口まで一分の隙もない程に。
 そこへ4人の男が中風の人を運んできた。が、すし詰め状態でイエスのそば近くに寄ることができない。どうすればよいか。男たちは考えた。そこでかれらはその家の屋根にあがって一部を壊し、井戸の釣瓶のように患者の床をイエスのそば近くに降ろしたのである。イエスはかれらの信仰を見て、中風の人にいった。子よ、あなたの罪は赦される。
 さて、この家に詰め掛けた群衆のなかに数人の律法学者がいた。かれらはイエスの台詞を聞いて、心のなかであれこれ考えた。──この人はどうして患者に、罪は赦される、などというのだろう。神に対する冒瀆ではないのか、罪人を赦すことのできるのは神だけのはずなのに。
 イエスの霊が律法学者たちの心のなかの疑問を聞き取ったので、イエスはかれらにいった。中風を患うこの人に向かって、罪は赦された、というのと、起きて床を担いで歩け、というのと、どちらが易しいであろうか。「人の子が地上で罪を赦す権利を持っていることを知らせよう。」(マコ2:10)
 そうしてイエスは中風の人にいった。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。するとその人は起きて、床を担ぐと、人々の見守るなかを何事もなかったかのように平然と、てくてくと自分の家に帰っていった。
 人々は皆唖然とし、呆然とし、驚いた。これまでこのようなことが起きた試しは一度もなかったからである。人々は神を讃美した。

 マコ2:13-17〈レビを弟子にする〉
 ガリラヤ湖の畔に出た自分を追って集まってきた人々を相手に、イエスは教えた。その際、通り掛かった街角でイエスは徴税人レビと出会った。わたしに従いなさい。イエスはそういって、このレビを弟子にした。
 ──イエスがレビの家で食事をしていたときのことである。大勢の人がその場、その時間を共にし、多くの徴税人や罪人がイエスや弟子たちと同席していた。この様子を見たファリサイ派の律法学者はイエスの弟子たちに、どうしてあなた方の先生はこのような連衆と席を同じうしているのか、と訊ねた。
 それを聞いたイエスは答えて曰く、健康な人は医者を必要としない、必要とするのは病を患う人たちである、と。続けて、──
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マコ2:17)

 マコ2:18-22〈断食についての問答〉
 洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食しているのに、どうしてあなた方はそうしないのか、と訊いた人がいた。
 それを聞いたイエスは答えて曰く、──
 花婿のいる婚礼の席で誰が断食するだろう。断食するのは花婿が奪い取られたときだ。
 誰も古着に新しい継ぎを当てたりはしない。古い革袋に新しいぶどう酒を入れたりしない。古い物には古い物を、新しい物には新しい物を。これが法則である。

 マコ2:23-28〈安息日に麦の穂を摘む〉
 或る安息日にイエスと弟子たちは麦畑のなかを歩いていた。弟子たちはお腹をすかせていたので、麦の穂を摘んで食べた。それを見咎めたファリサイ派の人々がイエスに、あなたの弟子たちは安息日の決まりを破った、と非難した。
 それを聞いたイエスは答えて曰く、──
 ダビデ王が空腹だったときのことが聖書に書いてある。あなた方はそれを読んだことがないのか。ダビデは神の家に入り、祭司以外は口にしてはならぬ供え物のパンを食べ、部下にも分け与えたではないか。勘違いをしてはならない。人のために安息日はある。安息日のために人がいるのではない。

 「マタイによる福音書」を読んでいたときはよくわからなかったことが、「マルコによる福音書」の読書中にようやくわかった、と感じることが間々あるのである。本章に則していえば断食について問答する場面、イエスの言葉がそうだった。
 服の継ぎとぶどう酒の喩え。これはいったいどういうことなのだろう、と思いながらも「マタイ」のときは読み流してしまっていた(そうした箇所はマタイ伝ノートに多くある)。この2つの喩えが断食とどう関係あるのだろう。この疑問は今日、本稿執筆中に解けた……ように思うている。
 おそらくこれは断食に限定した喩えではなく、慣習の話なのであろう。どれだけ考えても相応しい言葉が出てこないのだが、古い秩序と新しい秩序は相容れない、古くからの集団組織に新しい教えや考えは馴染まぬし、そも芽吹くことも根附くことも難しかろう。それを、イエスはここで服の継ぎとぶどう酒の喩えを用いて説くのである。
 これはイエスからファリサイ派への明確な「否」に他なるまい。あなた方の教義とわたしの思想は異なるのですよ、という一種の宣言。──わたくしはそう理解している。
 マコ2:14「アルファイの子レビ」がマタ9:9では「徴税人マタイ」になっているのは既に述べた通り。レビの別名がマタイであるならば2人は同一人物となる。しかし、レビとマタイが別人である可能性は否定できない。おまけに徴税人マタイと12弟子のマタイは同一人物であるのか否か、それすらも真相は藪のなかというべきだろう。「マルコによる福音書」が「マタイによる福音書」に先行して執筆されたならば、レビをマタイに書き換えた理由はなにか。12弟子マタイと同一視させ、福音書の著者として相応しい経歴を付与するがための初期教会による工作か。こんな古来よりの不明点に決着を付けるには、ドラえもんやデロリアンの登場にすがるより他ない。わたくしは真剣にこれをいうている。ハハハ。折しも今年は2015年、デロリアンが未来にタイム・トラヴェルした記念すべき年だ。百聞は一見に如かず。この言葉をとく噛みしめよ。
 当時のユダヤの住宅の屋根は、縦横に張り巡らした木材の上に塗り固めた粘土を敷いたもので、形状は平らであった、という。ただ、「ルカによる福音書」の並行箇所を読むと、屋根瓦を剝がした、とあるので、平らな粘土質の屋根の上には瓦が敷き詰められていたのだろう。ただ、それがすべてのユダヤの住宅に適用できる話かはわからぬ。
 いずれにせよ、4人の男が中風の人をイエスのそば近くに連れてゆくために屋根を壊したことを逆に考えれば、当時のユダヤの住宅は壊しやすい/壊れやすい屋根を持つ構造であったことの証ともいえるだろう。なお、『聖お兄さん』の何巻だかでイエスの説教を聞くために屋根を壊して屋内に入ってきた人がいる、とイエスが語るのはおそらくこの部分の挿話を挿すのだろう。
 (福音書の)イエスは屋根を壊してまで患者を担ぎこんだ男たちに信仰を見てひどく感じ入った様子だが、その家の持ち主にしてみれば屋根を勝手に壊されてはおちおち生活することもできず、修繕されるまでの間はずいぶんと不安で落ち着かぬことだったろう。その行為は単に傍迷惑かつ噴飯物でしかない。まったく、たまったものではありませんな。

 本日の旧約聖書はマコ2:25-26とサム上21:2-7、マコ2:26とレビ24:5-9。



 ISによる邦人拉致・殺害を契機に、この国でも反イスラムの感情がネット上にあふれる事態となった。いまは平穏を取り戻しつつある様子だが、逆に意識の奥底にその感情は沈められ、根付いてしまった感もある。
 地方都市に住むイスラム教徒の夫婦がいる。かれらは先日、日本を離れた。日本語の教え子なだが、あの事件によって風評被害を被ったのである。そうして、自宅の前でヘイト・スピーチがされたり、石を投げこまれたり、理由なき迫害を受けた。
 先生、もう限界ですよ。世界でいちばん寛容な国でどうしてこんな目に遭うのでしょう。僕らはイスラム教徒だが、ISはイスラムの皮を被ったただの過激派組織です。家族を守らなくてはならないから、残念だけれど日本を離れることにしました。こんな出来事のせいでこの国を去るのはとても辛いけれど、良い思い出もたくさんあります。良い人たちとも出会えました。もし僕らの国に来ることがあったら、ぜったいに寄ってください。
 ──かれからのメールに涙した。そうして、なにもできない自分に腹が立ち、<イスラム>の固有名詞ゆえにすべてを白眼視してヘイトする行為をなんとも思わぬ同胞ニッポンジンが憎たらしい。ヘイト行為に走るだけの余力があるなら、どうしてそれを使ってイスラムについての正しい知識を仕入れ、ISについて報道された内容を検証しないのだ。せめてそれぐらいの努力をしてから、自分の声で、自分の名前で主張をしてほしい。
 かりに実際のイスラム・ヘイトに携わっていなかったとしても、ネットやSNSでそれを主張・拡散したものも同罪ではないか。この人たちの行っていることは正義感ではなく、単なる不満解消だと思う。
 法と秩序と正義をねじ曲げるものは決して許されるべきではない。あらゆる差別と暴力を決して許してはならない。──そうして、寛容と博愛を忘れてはならない。気持ちだけではなく、実際の行動を以てそれを示そう。
 純朴にして敬虔なる二心なきイスラムの人たちと、再び友達になりたい。Let’s be friends.◆

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