第1889日目 〈マルコによる福音書第3章:〈手の萎えた人をいやす〉、〈湖の岸辺の群衆〉他with坂下K氏宅前小路にて火災あり。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第3章です。

 マコ3:1-6〈手の萎えた人をいやす〉
 イエスはカファルナウムの会堂に手の萎えたユダヤ人がいるのを見た。その人に曰く、真ん中に立ちなさい、と。そうして、その場にいた群衆に向かってこういった。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マコ3:4)
 会堂に集まっていた群衆は実は、安息日であってもイエスが病人を癒やすのかどうか、注目していたのであるが、イエスのこの問い掛けには誰も答えられなかった。
 イエスはかれらの頑なな心を悲しんだ。そうして真ん中に立たせた手の萎えた人の手に触れると、果たしてその人の手は癒やされ、健常な状態に戻ったのである。
 この様子を見たファリサイ派の人々はヘロデ党の人々と与して、イエス殺害の計画を練り始めたのである。

 マコ3:7-12〈湖の岸辺の群衆〉
 いまやイエスの評判は津々浦々に広まり、パレスティナ全土即ちガリラヤ・サマリア・ユダヤの各地方、ティルスやシドンを擁すフェニキア地方、またヨルダン川東岸のデカポリス、ペレアから、数多の人々がカファルナウムの町目指してやって来た。
 イエスは群衆に圧し潰されぬよう弟子たちに一艘の舟を用意させ、自分はそれに乗って湖上から岸辺の群衆に説教した。病人を癒やし、悪霊を人々の体から追い払った。悪霊どもは口を揃えてイエスを神の子と呼んでひれ伏した。イエスは自分のことを言い触らさぬよう厳しく戒めた。

 マコ3:13-19〈十二人を選ぶ〉
 イエスは自分の従う人々のなかから12人を選び、弟子とした。かれらを自分のそばに置き、また派遣して、人々への宣教や治癒に務めさせるためである。汚れた霊に対する権能、即ち悪霊を追い出して、人々のあらゆる病気や患いを癒やす権能も、イエスは弟子たちへ与えた。
 かれらは12使徒と呼ばれ、それを構成する者は以下の通りである、──
 ・ペトロと呼ばれるシモン
 ・アンデレ  ※シモンとアンデレは兄弟である。
 ・ヤコブ
 ・ヨハネ   ※ヤコブとヨハネはゼベダイの子で兄弟。ボネアルゲス、雷の子らと呼ばれる。
 ・フィリポ
 ・バルトロマイ
 ・マタイ
 ・トマス
 ・アルファイの子ヤコブ
 ・タダイ
 ・熱心党のシモン
 ・イスカリオテのユダ  ※後にイエスを裏切る。

 マコ3:20-30〈ベルゼブル論争〉
 イエスが家に戻ると群衆もそのあとに従った。その頃イエスの身内が来て、かれを取り押さえようとした。イエスの気が触れた、と噂が立っていたからである。またファリサイ派の人々はイエスを指して、ベルゼブルに取り憑かれた者、と呼んだ。悪霊の頭と結託している、とまでいうた。そんなファリサイ派にイエスの曰く、──
 どうしてサタンにサタンを追い出せよう。サタン同士で内輪揉めすればやがて滅びるのは必至。国も、家も同じだ。あなた方はわたしが汚れた霊に取り憑かれている、という。はっきりいっておこう。「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マコ3:28−29)

 マコ3:31-35〈イエスの母、兄弟〉
 イエスの母マリアと兄弟たちが来て、人をやって会堂のなかのイエスを呼び出した。が、イエスはそれに応じなかった。わが母とは誰か、わが兄弟とは誰か。イエスはそう問うた。そうしてまわりにいる人々を見て、こう続けた。ここにわが母、わが兄弟たちがいる。神の御心を行う人たちこそわが家族である。

 カファルナウムのイエスを家族が訪ねてきた。共観福音書の伝える小さなエピソードである。並行箇所であるマタ12:46−50、ルカ8:19−21は「訪ねてきた」ことだけを記し、その前後で来訪の目的が述べられることはない。
 が、両福音書の原型である「マルコによる福音書」はそれらと異なり、来訪の目的と推理される情報を提供してくれている。それがマコ3:21だ。気が変になった、といわれるイエスを取り押さえに来た身内の者たち──これが母と兄弟たちであろうか。示された情報はこれだけであるけれど、他資料を博捜して駆使すれば、言外の推定材料も得られるかもしれぬ。そうすれば、違う見方も可能であろう。たとえば、そういう身内もいるにはいたが、その後事態は収束されたのでそれの報告ついでにイエスの顔を見に来た、など。
 実際のところは勿論未詳だが、やはり本章のキモは、おそらく故郷ナザレ一帯に於いてであろう、漱石ならぬイエス発狂が信じられて身内の者が取りも直さず身柄の拘束に動いた、という点。これを踏まえて考えれば、故郷ナザレで受け入れられないのも道理かな、と思う(マタ13:53−58、マコ6:1−6a、ルカ4:16−30)。
 「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(マコ6:4)とはチャーリー・ブラウンも夏のキャンプで思わず口にした真理であるけれど、イエスの言動:かれを知る者には斯く映るか。成る程。



 平成廿七年弥生一日、夜半。坂下K氏宅前小路の群宅何れかにて火災あり。午前零時十六分に報あり、たちまち消防数多来たりぬ。十台近く取りも直さず来たりて場所なく遠方に停まるなどありき様なり。但し消防来たるも救急の陰、視野に無し。また消防群れる頃その方を眺めるも煙立つを見ず。消防の者らの無線を傍にて聞けば、すぐに鎮火しこれ所謂小火なるか云々。之午前零時三十九分のこと。之等大凡午前零時四十六より五十分の間に順次去りてやがてその陰一台と雖も見ざるなりき。今最期の一台赤灯回転して点滅するも之やがて行き、夜街尓静音戻りけり。拙宅襲いたる難を想起し之甚だ不快。◆

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