第1890日目 〈マルコによる福音書第4章:〈「種を蒔く人」のたとえ〉、〈たとえを用いて話す理由〉他with数年ぶりにド氏を読んでいますが、……〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第4章です。

 マコ4:1−9〈「種を蒔く人」のたとえ〉
 於ガリラヤ湖畔。イエスは舟に乗り、岸の群衆を前に喩え話を用いて教え始めた。種を蒔く人が種を蒔きに行ったところ、──
 或る種は道端に落ちて、鳥に食べられた。
 或る種は石ころだらけで土の殆どない場所に落ちて、根附かぬまま枯れた。
 或る種は茨のなかに落ちたが茨にさえぎられて、実を結ぶことはなかった。
 他の種は肥沃な土地に落ちてよく育って実を結び、30倍、60倍、100倍にもなった。
 聞く耳のある者はこれを聞け。

 マコ4:10−12〈たとえを用いて話す理由〉
 イエスが1人でいるとき、弟子たちが来て、どうしてかれらには喩えを用いて教えるのですか、と訊いた。
 あなた方には神の国の秘密がそのまま語られるが、他の人々には喩えを用いてそれを示す。そうイエスはいった。預言者イザヤの言葉にあるように、見ても認めず、聞いても理解できず、立ち帰って赦されることがないようにするためである。

 マコ4:13−20〈「種を蒔く人」の説明〉
 続けてイエスはいった。この喩えのわからぬ者がどうして他の喩えを理解できようか。それはこういうことである、──
 種を蒔く人とは、神の言葉を蒔く人のことである。
 道端に落ちた種とは、御言葉を聞いてもすぐサタンによってそれが奪われてしまう人のことである。
 石ころだらけの土地に落ちて根附かぬまま枯れた種とは、三日坊主で、後々御言葉ゆえに困難に遭うとすぐつまずく人をいう。
 茨のなかに落ちて実を結ばなかった種とは、御言葉を聞くには聞くが実生活の憂いや悩み、富の誘惑、様々な欲望によって心が惑い、それらによって聞いた御言葉を忘れたり、失ってしまうような人を指す。
 よく育って実を結んだ種とは、御言葉を聞いて受け入れ血肉とし、場合によって30倍、60倍、100倍もの恵みを得る人のことだ。

 マコ4:21−25〈「灯火」と「秤」のたとえ〉
 灯火は燭台の上に置かれて部屋の隅々まで照らす。隠されていたもので露わにならぬものはなく、秘められたもので公にならぬものはない。──聞く耳のあるものはこれを聞け。
 あなた方がいま、なにを聞いているかについて注意を払え。あなた方は自分を量る秤によって、更にたくさんのものを与えられる。──「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マコ4:25)

 マコ4:26−29〈「成長する種」のたとえ〉
 神の国をこう喩えよう。
 人が土に種を蒔き、あとは夜でも昼でも寝て過ごす。その間ずっと、人は蒔いた種がどうなっているかを知らない。
 が、土はひとりでに実を結ばせる。ちゃんと育ち、実が熟すと、人はさっそく鎌で刈り入れる。収穫の時が来たのだ。

 マコ4:30−32〈「からし種」のたとえ〉
 神の国をどう喩えよう。
 それはからし種のようなものである。土に撒くときは地上のどんな種より小さいが、成長すれば野菜より大きくなり、やがて枝を張ってそこに鳥が巣を作るぐらいに大きくなる。

 マコ4:33−34〈たとえを用いて語る〉
 斯様にしてイエスは、自分の話を聞く者にあわせて様々な喩えを用いて教えを宣べた。が、自分の弟子たちには喩えを用いることなく、秘かに、すべてを話した。

 マコ4:35−41〈突風を静める〉
 その日の夕方、イエスは弟子たちを連れて湖の対岸へ渡った。すると突風が湧き起こり、湖面は大いに荒れ狂った。舟は波をかぶり、水浸し。
 弟子たちは怯え、艫を枕にして寝ているイエスを起こして、どうにかしてください、と頼んだ。イエスは起きて、風を叱り、湖に命じた。黙れ、静まれ。するとたちまち風はやみ、湖は穏やかになった。
 なぜ怖がるのか。イエスはいった。まだ信じないのか。
 弟子たちはイエスの業を見て、非常に恐れ、訝った。この人は何者だろう、風や湖をも従わせるこの人は、いったい誰なのだろう。

 本章で披露された喩え話はすべて「マタイによる福音書」を既に読み、やがては「ルカによる福音書」でも読むことになる。
 さすがに別の書物と雖も同じ内容を読むのが2度目となれば、以前は気が付かなかったこと、見落としていたことが見えてきて、それが為にこれらの喩え話は前回以上に理解できるようになる。──「マタイによる福音書」のときは、とりあえず消化するのが先、という意識がどうしてもありましたからね。
 が、こうして読むと、イエスの語りの上手さ、比喩の豊かさ・わかりやすさ、人心掌握術の巧みさなどに改めて思いを新たにし、感服する。イエスの言葉を記した4つの福音書、もしくは新約聖書全体を見渡した場合、イエスは極めて優秀かつ有能な街頭演説家、煽動家である、と評してあながち間違いはないと思う。
 論旨の明快ぶり、語りのさわやかな調子、能弁である点など、<話す>ことを仕事とする側よりすれば、まこと見習うべき先達といえようか。

 本日の旧約聖書はマコ4:12とイザ6:9−10。



 久しぶりにドストエフスキーを読んでいて(改めて)思うたこと──いや、皆さん、誰にも負けることなく喋って喋って喋りまくりますな! そうして皆さん、相手の話を辛抱強く耳を傾け、おまけに最初の方で話したことについてもきちんと覚えていらっしゃる。いったいどれだけの人たちなのか……。
 現在ではこんなこと、絶対考えられません。21世紀の今日、そんな小説が商業出版されたなら、それは確実に<狙って>いるか、作者も編集者も左巻きか、どちらかに相違ありません。それでも出版されたら話題になることは確実で、わたくしもその暁には怖いもの見たさで手にしてみたいものであります。
 ドストエフスキーの登場人物の長台詞ばかりでなく、ディケンズの長大・悠然たる筋運びやバルザックの細密画のような描写についても然りですが、19世紀というのはいまよりもずっと時間がゆったりと流れていて、読者諸氏も小説とはそのようなものだ、という認識の下にそれらを手にしていたのでありましょうね。或る意味に於いて小説好きには至福の時代であったかも。ああ、良いなぁ、19世紀の読書界……。
 いつから小説というものは質実共に痩せ細り、袋小路に迷いこんでしまったのだろう?◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。