第1891日目 〈マルコによる福音書第5章:〈悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす〉&〈ヤイロの娘とイエスの服に触れる女〉with読みたい本が見附からなかったから、……〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第5章です。

 マコ5:1-20〈悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす〉
 一行はガリラヤ湖を渡って対岸、即ちデカポリス地方のゲラサ人の土地へ到着した。イエスが舟から下りると、すぐに汚れた霊に取り憑かれたゲラサ人が来て、いった。神の子イエスよ俺に構うな、後生だから苦しめてくれるな。
 この、悪霊に取り憑かれたゲラサ人は墓場を住処としていて、どれだけ縛られ、どれだけ鎖や枷でつながれても結局はそれらを引きちぎったり砕いてしまったりして自由になってしまうのだ。「彼は夜も昼も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」(マコ5:5)
 汚れた霊よ、この人から出て行け。イエスはそういった。汚れた霊はイエスに、どうか自分たちをこの地方から追い出さないでほしい、と頻りに懇願した。イエスは汚れた霊に、汝の名は、と訊ねた。汚れた霊が答えて曰く、わが名はレギオン、われらは大勢だから(レギオンとは「軍団」という意味である)。
 悪霊よ、この人から出て行け。そうイエスはいった。すると汚れた霊は付近の山で餌を漁る豚の群れを指して、われらをあの豚どものなかに入れてくれ、と願った。イエスはそうさせた。汚れた霊に取り憑かれた豚の群れは次々と湖目掛けて走り出し、そうして終いには溺死した。その数、2,000。──豚飼いたちは恐ろしさのあまり逃げ出し、町や村にこの出来事を知らせた。
 不信の村人たちが現場へ赴くと、これまで汚れた霊に取り憑かれた人が正気を取り戻しており、きちんと身なりを整え、端座している光景を目にしてびっくりしてしまった。事の次第を知る人たちが説明すると、今度は村人、すっかり気味悪がってイエスに、さっさとこの土地から出て行ってくれ、と要求した。イエスたちはそれに従った。
 と、かれらのあとを件の男が追ってきて、自分も一緒に連れて行ってほしい、と頼んだ。が、イエスはそれを断り、自分の家に帰るよう諭した。「そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マコ5:19)
 ──その人は却って家族や隣近所に、イエスが自分にしてくれたことをつぶさに語って聞かせた。その話はデカポリス地方一帯に広まり、聞いた人々は皆一様に驚いた。

 マコ5:21-43〈ヤイロの娘とイエスの服に触れる女〉
 再びガリラヤ湖を渡ってカファルナウムの町に戻ったイエスの許に、ヤイロという名の会堂長が来て娘の重態を告げ、助けてほしい、と頼んだ。イエスは諾い、弟子たちを連れてヤイロの家に向かった。当然、かれにくっ付いて回る群衆もぞろぞろと。
 その途中のことである。12年間も出血の止まらない女がいた。彼女はイエスが来ていることを知り、その人の服にでも触れれば病は癒えるかもしれない、と一縷の希望を抱いて群衆のなかへ紛れこみ、ようやっとイエスの服の裾に触れた。するとたちまち彼女の病は治り、出血もすぐに止まったのである。これまでは全財産を処分して治療に臨んでも治らなかったのが、イエスの服の衣に触れた途端、完治したのだった。
 ところでイエスは、自分の体から力が、すうっ、と抜けてゆくのをふしぎに感じて、あたりを見廻した。誰がわたしの服に触れたのか。弟子たちは、これだけの人が周囲にいるのですから、誰が先生の服に触れたかなんてわかりません、と答えた。このやり取りを聞いていた件の女は恐ろしくなり、それは自分です、と名乗り出た。そうして事情を打ち明けた。それを聞いてイエスの曰く、──
 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マコ5:34)
 ──イエスと女がまだ話しているとき、ヤイロの家から人が来て、かれの娘が息を引き取ったことを知らせた。
 イエスは娘の父であるヤイロとその妻、弟子のペトロ、ヤコブとヨハネ兄弟だけを連れて、会堂長の家に入った。そうして娘の死を嘆き悲しむ人たちにこういった。その子は死んでいるのではない、眠っているだけである。嘲笑する人たちを無視してイエスは娘の手を取り、そうしていった。タリタ、クム。少女よ、起きなさい、という意味である。
 すると娘は目を覚まし、起きあがって歩き出した。人々はこの様子を見て腰を抜かすほどに驚いた。すっかり我を忘れて口も聞けないぐらいだった。
 イエスはこのことを誰にも知らせぬよう厳しく言い置き、また彼女になにか食べさせるよう命じた。

 実は本日の2つの挿話、福音書の数あるイエスにまつわるエピソードのなかでも五本指に入る程に好む箇所である。自己弁護をするのではないが、取り憑かれた者を救い、長く続く病を癒やす人の存在を希求するならば、本章に親しみを覚えるのは宜なるかな、というところではあるまいか。わたくしも夜昼の別なく墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりしている。もうその病気が完全に治癒され煩わされることなく元気に暮らすことを望んでいる。群衆のなかのロビンソン・クルーソーが抱える闇と孤独はそう易く癒やされるものではないようだ。いったい<雪解け>はいつ訪れるのだろう?
 ──果たしてデカポリス地方ゲラサ人の土地にいたレギオンは地縛霊のようなものであろうか。もし土地に縛られているなら、この悪霊とゲラサ人の土地にはどのような因果関係があるのだろう。双方になにかしらの因果がない限り、イエスに斯様な懇願をすることもないように思うのだが……。こうしたところも聖書理解、福音書理解には見過ごすべからざる問題点と思うのだが、この点に着目して研究したりした教会や学者や信徒たちはいるのだろうか。いないならせめてこの点、考えていただきたいものである。
 そうしてマコ5:5の引用箇所;これは近隣の人たちへの悪霊による意図的所作、パフォーマンスであるのか。はたまた取り憑かれた者の意識が表層へ浮かんだ際に発せられた、わが運命を呪い、解放を望む嘆きの声であったか。たとえば──スティーヴン・キング『シャイニング』に於けるホテルの悪霊に憑かれたジャック・トランスの如き? となれば……悲しみの深さは想像するに余りあります。



 真夜中にiTunesで音楽を購入しているとき、ふと一冊の本が読みたくなって探し回るも見附からず。その場は断念したものの、改めて部屋の掃除と蔵書の処分を行うよりない、という思いを強くしたのである。もう目の前ではあるけれど、春までにはいまよりすっきりとした、どこになにがあるか把握できるぐらいの所蔵量にしておきたい。もうこのままでは駄目だ。◆

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