第1893日目 〈マルコによる福音書第7章:〈昔の人の言い伝え〉、〈シリア・フェニキア地方の女の信仰〉他withiTunesで映画をレンタルすること。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第7章です。

 マコ7:1−23〈昔の人の言い伝え〉
 或るとき、エルサレムから来たファリサイ派の人々と数人の律法学者が、イエスの弟子たちが手も洗わずに食事している光景を目にして驚いた。かれらの慣習ではあり得ぬことだったからである(ex;マコ7:3−4)。そこでかれらはイエスに、どうしてあなた方の弟子たちは手が汚れたまま食事を摂っているのか、と訊いた。
 イエスは答えた。あなた方は神の掟を捨て、人間の言い伝えを固く守っている。よくもそのようなことができるものだ。「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(マコ7:13)
 そうして、集まっている群衆に向けて、いった。外から人の体に入るもので人を汚すものはなにもなく、人のなかから出て来るものこそが人を汚すのである。人々よ、聞いてこれを悟れ。
 が、弟子たちはイエスの言葉がよく理解できなかったので、イエスが群衆と別れて家のなかに入るや、いまの言葉の真意について訊ねた。イエスはこれに嘆息し、頭を振って曰く、──
 人の口から体のなかに入った食べ物や飲み物は、腹を経由して外に出る。こうして口から入ったすべてのものは清められる。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無差別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マコ7:20−23)

 マコ7:24−30〈シリア・フェニキア地方の女の信仰〉
 イエスはカファルナウムをあとにして、ティルスの町があるフェニキア地方へ行った。誰にも自分が来ていると知られたくなかったけれども、やはり来ていることは知られてしまい、その地の人たちはこぞって集まってきてしまったのだった。
 そのなかに、悪霊に取り憑かれた娘を持つ母親がいた。彼女はギリシア人でシリア・フェニキア地方の出身だった。どうか娘を救ってください、と彼女は頼んだ。どうか娘のなかから悪霊を追い出してください。
 イエスは答えた。娘にじゅうぶんな量の食べ物を与えなさい。但し、娘が食べるべきパンを犬にあげてはならない。
 しかし先生、と母親はいった。食卓の下の子犬は食卓から落ちたパン屑を食べるのです。
 イエスは母親を家に帰した。彼女の信仰を正しいと見たのである。果たして彼女が家に帰ると、娘は、イエスのいった通り悪霊から解放されて、寝台で眠っていたのだった。

 マコ7:31−37〈耳が聞こえず舌の回らない人をいやす〉
 イエスはフェニキアからデカポリスへ赴き、ガリラヤ湖畔へ戻ってきた。そこで耳の聞こえない人を癒やし、舌の回らない人を癒やした。このことを広めたりしないように、とイエスは(例によって)厳しく口止めしたが、「しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。」(マコ7:36)

 ──「口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」という箇所を読んで、実はわたくしは大笑いしてしまいました。予定調和的な笑劇と思え、またそれによって憤慨するイエスの姿を想像し、歓喜に心浮かれた人々の様子を想像し、悪意なき噂の連鎖を思うて呵々し、溜め息してしまうのであります。
 もはやイエスの一挙一動は注視され、周辺地域にくまなく伝播する、格好のニュース・ネタになった。ヘロデ・アンティバスがイエスの噂を聞き及んでヨハネの復活と考えて恐怖した、という前章で読んだ挿話もそれを裏付けておりましょう。イエスの言行が弟子たちやその教えを信じる者以外の一般大衆にとっても、無関心ではいられなくなっており、むしろそうした人々の方がイエスの言行や旅程について一際強い関心を持っていたかもしれません。この時代にTwitterやFacebookなどSNSが存在していたら、きっととんでもない騒動が起こったに違いありません。
 さて。
 「マルコによる福音書」は誰が、どこで執筆したか。わたくしはそれを、シリア・パレスティナ地方の外に住むローマ帝国領内のキリスト者であろう、と〈前夜〉にて触れました。すくなくとも、ユダヤ人の慣習を一端ながら知る人物であろう、とも。その根拠を提供するのが、本章第3−4節であります。本日のノートには反映させなかった箇所でもあるので、そこを引用すれば、──
 「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」
 今日のわれらの習慣からすれば手を洗わないで食べることを、汚い、とも、不潔、とも思うのですが、これはむしろ日本人的感覚であり、当時のユダヤ人のそれでは勿論、ない。そうしてここでいう「汚れた手」(マコ7:2)が、律法が規定する不浄なものに触れた手ではなく、あくまで世俗の行いがされた手であることは一読して推察できるし、またその旨フランシスコ会訳聖書の傍注にもあります。
 ここで指摘される「食事の前には手を洗え」というのは、律法には本来なかった事柄をファリサイ派や律法学者が追加事項として設けたものだ。それは神の掟に反する行い、背く行為だ、とイエスは拒絶反応を示し、かれらを弾劾するのである。イエスが殊にファリサイ派や律法学者と対立するのは、律法本来の教えではなく、その周辺に張り巡らせた余計な事項を遵守させ、また神の掟よりも人間が伝えてきた習慣を尊ぶその姿勢ゆえでありました。そうして、律法主義でありながら律法に書かれたことの意味を考えぬその一知半解ぶり、有職故実に凝り固まった形骸化したその考え方でありました。イエスはそれらに「否」を突き付けた、当時としては非常にラディカル、しかし実際は、極めてリベラルな姿勢の持ち主であったことを念頭に置いて読むのが良いでしょう。
 イエスをキリスト者が崇めるメシア、キリスト教の親玉という宗教面から切り離して考えると、だいたいこんな見方、捉え方ができる、と思います。



 iTunesにて映画をレンタルすることが多くなってきました。わざわざ実店舗に出向き、お目当てのものがレンタルされていたらどうしよう、と怯えることも、返却期限をうっかり超過して延滞料金を払う羽目にならぬことも利点の1つでしょうが、わたくしの場合、原稿を書いていたりなにかの拍子に確認したい事柄が発生した場合、すぐにiTunesでレンタルして確認できる、という安心感があります。
 1作あたりのレンタル料金はTSUTAYAなど実店舗よりも高額に思えるけれど、レンタルして30日以内であれば再生可能、返却期限は再生開始から48時間以内となれば、おそらくお店で借りてくるよりは安く済む話でありましょう。
 ただ問題点は、自分の観たい(ソフト化されている)作品が必ずしもiTunes上にあるわけではないこと、連続ドラマのラインナップが全滅していること、邦画で字幕選択できる作品が皆無であること、洋画の場合は字幕版・吹き替え版が並立している点でやや使い勝手が宜しくないこと、などなど。幾つかは今後改善されようし、幾つかは克服されぬまま時間が流れるのだろう。
 このような弊害があったとしても、それでもiTunesでの映画レンタルは便利です。できればHuluとiTunesで二刀流、と気取りたいところですが、如何せん双方帯に短し襷に長し。それぞれの長所を取り挙げてみれば重複するところが実に多く、これは短所に於いてもほぼ変わりはない。Huluで軍配を挙げるところがあるとすれば、連続ドラマのラインナップがそこそこ充実している点か。あと指摘すべきは支払い方法ですが、これについてはまた機を見て。今一つ、Huluの支払い方法に納得がゆかず、使い倦ねている部分があるからだ。これが解決したら、Huluをもう少し積極的に利用したいな、と思うのだが。
 実を申せば現在わたくしのiMacには、iTunesでレンタルした映画が3作ある。それらの感想を認める機会あり、本ブログにてお披露目することとなった場合には、それがiTunesでレンタルしたものであることを江湖に宣伝(?)させていただきます。映画が好きな人であれば、限界はあると雖もiTunesの利用は積極的に行うべきであろう、というのが、現時点でのわたくしの意見である。◆

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