第1894日目 〈マルコによる福音書第8章&第9章1/2:〈ファリサイ派の人々とヘロデのパン種〉、〈イエス、死と復活を予告する〉他with4年目の“3.11”を迎えて。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第8章と第9章1/2です。

 マコ8:1−10〈四千人に食べ物を与える〉
 その頃、また群衆が集まってきた。イエスやその弟子たちのところでのらくらしていて、お腹を空かせる始末。人里離れた場所だったので、どこからも食べ物は調達できそうにない。
 パンは何個あるのか。イエスはそう訊ねた。弟子たちが、7個あります、と答えた。イエスは群衆を地面に坐らせるとパンを手にし、感謝の祈りをささげた後にそれを裂いて弟子たちに渡し、これを人々に食べさせるよう命じた。また、魚も少しあったので、イエスはパンにしたのと同じようにして、人々へ食べさせた。……これらを食べると群衆は皆、満腹になった。パン屑を集めさせると籠7杯分あった。
 イエスは群衆を解散させると、弟子たちを連れて舟に乗り、ダルマヌタの町へ向かった。

 マコ8:11−13〈人々はしるしを欲しがる〉
 ダルマヌタの町へ到着したイエスの許にファリサイ派の人々が来て、天からの徴を見せてほしい、といった。かれらはイエスを試そうと企んでいたのである。イエスは心のなかで深く嘆き、いった。「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(マコ8:12)

 マコ8:14−21〈ファリサイ派の人々とヘロデのパン種〉
 ファリサイ派の人々を退けたあと、イエスと弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に向かった。その舟のなかで弟子たちはパンを1個しか持ってこなかったことに気附いた。
 そのときである、イエスが、ファリサイ派とヘロデ党の人たちの差し出すパン種に気を付けなさい、というたのは。弟子たちはこれを、自分たちがパンを持っておらず、それゆえにファリサイ派とヘロデ党の人々が親切めかして差し出すパンに誘惑されたりするな、という意味なのだ、と議論の末に解釈した。
 イエスは頭を振って弟子たちにいった。パンを持っていないからといってそのことについて議論するな。あなた方にはまだ理解できないのか、悟ることもできないのか。どうしてそこまで心が頑ななのか。その耳は飾りでなにも聞こえていないのか、まるでなにも覚えていないのか。
 続けて、──
 5,000人に5個のパンを裂いて与えた日、パン屑は何籠分になったか。4,000人に7個のパンを裂いた今日、パン屑は何籠分あったか。(弟子たちが12籠分です、7籠分です、と答えた)──まだあなた方は悟らないのか。

 マコ8:22−26〈ベトサイダで盲人をいやす〉
 一行はベトサイダの村へ向かった。そこへ到着するや、人々が病人を連れて集まってきた。そのなかに、目の見えない人がいた。イエスはその人を村の外へ連れ出して、相手の目に唾を付け、両手をかれの頭上に置いた。
 なにが見えるか。そうイエスは訊ねた。すると、人の姿が見えます、と返事が返ってきた。木のようにしか映りませんが、歩いている様子は見て取れます、とかれはいった。イエスはもう一度、相手の頭上に両手をかざした。そうしてかれは視力を取り戻し、視界に映りこむものはなんでもちゃんと見えるようになったのである。
 イエスは目が見えるようになったその人に、ベトサイダの村には戻らずこのまま家に帰りなさい、といった。その人はそうした。

 マコ8:27−30〈ペトリ、信仰を言い表す〉
 イエスが弟子たちとフィリポ・カイサリア地方へ赴いたときのことである。
 人々はわたしのことをなんといっているか。イエスは訊ねた。然る後、イエスは再び訊いた。では、あなた方は何者と思うか。
 それにペトロが答えた、あなたはメシアです、と。
 「するとイエスは、御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた。」(マコ8:30)

 マコ8:31−9:1〈イエス、死と復活を予告する〉
 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」(マコ8:31−32)
 イエスが突然そのようなことを話したのに驚いたペトロは、かれを脇へ連れて行き、あのようなことをいってはなりません、皆が動揺します、と諫めた。が、逆にイエスからこう叱責された、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マコ8:33)と。
 そうして群衆と弟子たちを呼び集めて、こういった、──
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
口語訳
35:マルコによる福音書/ 08章 35節
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(中略)神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。(中略)はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(マコ8:34−35,38,9:1b)

 12人の弟子たちは必ずしも優れていたわけではなく、また、一頭地を抜く程に有能なわけでもなかった。愚鈍の衆、とまではいわぬまでも、イエスの起こす数々の奇跡を目の当たりにしてもそれをあるがままに受け入れることは難しく、発言の真意と比喩をたちどころに正しく解釈できる程ではなかった。それがイエスをしてかれらに、愛と嘆きと失望の綯い交ぜになった叱責をさせたのだろう(マコ8:17−18)。
 殊にペトロは──12弟子の筆頭格でリーダー的存在であるペトロはその傾向が甚だしい。福音書の記録からは弟子たちのうち、ペトロの言動しか浮かび上がらないのでその分割を喰う形ではあるが、新約聖書を通じていちばん成長が確認できるのも実はこのペトロである。
 福音書で描かれるペトロは幾分そそっかしくて失言も多く、イエスの言動の解釈では弟子団をミス・リードさせること度々であるが、イエス亡きあとは12使徒のリーダーとの自覚も出たか、イエス・キリスト(メシア/救世主イエス)の言葉と奇跡を地中海世界──ローマ帝国領内へ根気強く、熱心に伝道して根附かせ、自身の弟子を育てた(マルコ、パウロ他)。そうしてローマにて殉教した。前にも書いたが、このペトロが初代ローマ法王と記録されている。
 しかし、そのペトロもイエス存命中は疑ってしまうぐらいに<愚>で、幾分か春風駘蕩な様子もある。けれどもイエスは実はそのような人をこそ必要としたのであろう。自分よりも優れた者ではなく、自分の教えについて深く考察して場合によっては<否>を唱える者ではなく、自分の言葉、教え、奇跡をその場ではすぐに理解できずともあるがままの眼差しでそれを見、後に伝えてゆくことのできる者をこそ、イエスは必要としたのだ。それはけっして自分の周囲をイエス・マンで固めたということではない。それだけは注意しなくてはならない。
 パン種の喩えはマタ16:5−12にて読んだ(「ルカによる福音書」にこの喩えはない)。「マルコによる福音書」ではファリサイ派とヘロデ党の差し出すパン種がなにを意味するか、特に説明をしない。が、マタ16:12ではそれがファリサイ派とサドカイ派の「教え」であることが知らされている。
 「マルコによる福音書」では説明しないことが「マタイによる福音書」では説明されている、という傾向が偶然ではなく事実であったとすれば、それは各々の福音書の執筆意図、対象読者の相違、そこから必然的に浮上する各々の福音書の性格といった点に理由を求められようか。
 なお、マコ8:10に出る「ダルマヌタ(の町/地方)」とはマタ15:39「マガダン地方」と同じ。即ち、ガリラヤ湖西岸のマグダラを指す。



 4年前のこの時間、何事か起こるなどわかっていた者がどれだけいただろう。いまから12時間と46分後、マグニチュード9という途方もないレヴェルの地震が発生し、人智を超越した規模の津波がはるか沖合から押し寄せ、すべてを呑みこんで破壊した。そうして史上空前の原発事故が発生した。
 4年前のこの時間、自分がまだ起きていたかどうかも覚えていない。それぐらいに当たり前な、まったく代わり映えのしない<湯冷めしない程度にぬるい>日だったのだ。いまから12時間と46分後、会社で商品の勧誘電話をしていて、相手は契約しそうもないな、とクロージングの機会を探っていた矢先、坐ることも立つこともできないような揺れを感じて、机に必死にしがみついた。目の前の大型モニターに映るNHK−BSが押し寄せる津波の映像を流すのはその約1分後のことで、揺れがまだ収まっていない頃である。
 4年前のこの時間、4年間のこの日、何事も起こらなかったら、<いま>という時はどのようなものになっていただろう。あのまま時間が分岐しなかったら、いまわれらはどのような人生を歩み、この国はどのような方向へ進んでいただろう? 現在より少しでもマシな方向に歩けていたのかな?◆

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