第1895日目 〈マルコによる福音書第9章2/2:〈イエスの姿が変わる〉、〈汚れた霊に取りつかれた子をいやす〉他with4日も休んでごめんなさい。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第9章2/2です。

 マコ9:2-13〈イエスの姿が変わる〉
 自分の死と復活を予告した6日後、イエスはペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて高い山へ登った。するとイエスの姿は変容し、その肌は白絖の雪よりも、白妙の絹よりも、白くなったのである。そうしてモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合った。ペトロは歓喜のあまり、この場所にお3方のための仮小屋を建てましょう、と口走った。やがて雲が現れてイエス、モーセ、エリヤを包み、そのなかから声がした。曰く、これはわが愛する子、これに聞け、と。──雲が晴れるとそこにはイエスだけがいた。
 下山する途中、イエスは3人の弟子たちにいった、今日のことは、人の子が死者のなかから復活するその日まで誰にも話してはならない。弟子たちは、それがどのような意味なのか、議論し合った。
 そうしてかれらは、どうして律法学者たちはエリヤが先に来るはずだ、というのでしょう、と訊いた。イエスが答えて曰く、──
 「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(マコ9:12-13)

 マコ9:14-29〈汚れた霊に取りつかれた子をいやす〉
 4人が他の弟子たちのところへ戻ってくると、かれらは律法学者たちと議論していた。悪霊に取り憑かれた息子を助けてほしい、息子のなかから悪霊を追い出してほしい、と或る父親が来たのでそれを行ってみたが、弟子たちには汚れた霊を少年から追い払うことができなかったのを承けて、それについて弟子たちは律法学者たちと言い争っていたのである。
 これを聞いたイエスはいった。なんと信仰なき時代であることか。わたしはいつまであなた方と一緒にいられよう。いつまであなた方に我慢しなくてはならないのだろう。
 イエスは少年を連れて来るよう命じた。悪霊はイエスを認めるや、少年の体にひきつけを起こさせ、その場に倒れて転げ回させ、口から泡まで吹かせてみせた。
 その様子を見た少年の父親がイエスに、あなたに息子を助けるとこができましょうか、もしそれができるならわれらを憐れみ救ってください、と懇願した。
 できるならば、とは何事か。そうイエスはいった。信じるならばなんでも出来るのだ。
 少年の父親が、信仰なきわたしを助けてください、といったので、イエスは少年に取り憑いていた悪霊を追い払った。しばらくは死んだようになっていた少年だったが、イエスがかれの手を取ると起きあがり、父親と一緒に家に帰った。
 このことがあったあと、イエスは弟子たちに、汚れた霊の類は祈りに拠らなければけっして追い出すことは出来ない、と教えた。

 マコ9:30-32〈再び自分の死と復活を予告する〉
 イエスは町や村に入って人々に気附かれるのを好まなかった。心ない人々によって自分は捕らえて、時を経ずして殺されるであろうことを知っていたからだ。イエスは自分の死と復活について、改めて弟子たちに話した。かれらはこれを聞いて深く悲しみ、この言葉についても怖くて、それまでのようには真意を聞くことも憚られた。

 マコ9:33-37〈いちばん偉い者〉
 道中、弟子たちが誰がいちばん偉いかについて話し合っているのを聞いたイエスは、かれらを呼び集めてこういった。曰く、──
 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マコ9:35)また、「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしを遣わしになった方を受け入れるのである」(マコ9:37)とも。

 マコ9:38-41〈逆らわない者は味方〉
 イエスの名を騙って悪霊を追い出している者がいる、とヨハネがイエスに告げた。
 実はヨハネはそれを止めさせようとしていたが、イエスはそれに反対した。その者はわたしの名によって悪霊を追い払う奇跡を行ったのだから、よもやそのすぐあとでわたしの悪口はいえまい。わたしに逆らわない者はわたしの味方である。
 それゆえキリストの弟子という理由だけであなた方に水を恵んでくれる人は、必ずや祝福を受けることだろう。

 マコ9:42-50〈罪への誘惑〉
 イエスはいった。自分を信じる小さな者の1人をつまずかせる者は、重しをつけられて海に投げこまれてしまう方がはるかに良い。
 もし片方の手や足があなたをつまずかせるなら、その手や足は切って棄ててしまえ。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、その目を抉り出してしまえ。五体満足のまま永遠の火が燃え盛る地獄へ投げこまれるぐらいなら、たとい片手片足、片目だけであっても命あって生き永らえる方がマシである。
 「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マコ9:50)

 マコ9:42-50〈罪への誘惑〉については一部、並行箇所であるマタ18:6-9〈罪の誘惑〉から流用した。ご容赦願いたい。
 イエスの姿が変容した高い山はタボル山ともヘルモン山ともされる。ここでイエスはモーセとエリヤと会い、会談した。この箇所について「マタイ」ではあまり考えることもなく過ぎたが、改めてこれがどのようなことであるかを調べたところ、ここで3人が語り合った内容とは、このあとイエスがエルサレムに入って果たすべき役割、しなくてはならない事柄についてのものだった、という。
 顧みれば、エルサレム入城後のイエスの言動には、結論だけが開陳されて動機と経緯が語られないパターンが目に付くようになったようである。それを踏まえてこの会談の場面を読むと、イエスがここで一段、より高みに登って自分の役割と為すべきことを見通した、と考えられそうだ。前後してイエスは自分の死と復活について三度語る。活動当初はまだ不明瞭だった自分の未来がこのときになって、明確なヴィジョンとしてかれの目に映るようになったのだろう。
 モーセとエリヤがここでイエスと会うのは、かれらが旧約聖書に於ける律法と預言者の象徴的存在で、メシアたるイエスの到来を告げてきた者であるから。それゆえにここではモーセ、そうしてエリヤがイエスと会うという、ありがたくも畏れでいっぱいな光景が現出することになったのだ。



 予告なしに4日も休んでしまって申し訳ありませんでした。この間、ずっとハマトン『知的人間関係』を読んでいました。
 今日からまた従前通りの更新を行ってゆきますので、どうぞ宜しくお願いします。◆

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