第1896日目 〈マルコによる福音書第10章:〈離縁について教える〉、〈子供を祝福する〉他with竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』の再読を開始、半分まで来ました。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第10章です。

 マコ10:1−12〈離縁について教える〉
 イエスはカファルナウムを発って、ヨルダン川の向こう側、即ち東岸のデカポリスとペレア地方を通り、再びヨルダン渡河してユダヤ地方へ入った。当然、群衆も(金魚の糞の如く)付き従った。
 途中、ファリサイ派の人々がイエスを試そうと来て、離婚が律法に適っているかどうかと問うた。その際、モーセは離縁状を書いて離縁するよう命じた、とかれらはいう。
 イエスはいった。あなた方の心がかたくななだからモーセはそのように命じたのだ。続けてイエスの曰く、──
 「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マコ10:6−9)
 また、あとになってイエスは弟子たちに、こうもいった。妻を離縁して他の女と結婚した男は、別れた妻に対して姦淫の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男と結婚した女も、別れた夫に対して姦淫の罪を犯すことになる。

 マコ10:13−16〈子供を祝福する〉
 イエスに祝福してもらおうと、人々が子供を連れて来た。それを弟子たちが叱って追い払おうとする。イエスは弟子たちを諫め、子供たちを祝福した。
 神の国はこの子らのような者のためにある。そうイエスはいった。続けて、「子供のように神を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない。」(マコ10:15)

 マコ10:17−31〈金持ちの男〉
 イエスがその地を出発しようとすると、富裕な男が来て、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいか、と訊ねた。それにイエスが答えて曰く、──
 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。」(マコ10:19)
 男が、それならばもうすべて行ってきて、守らなかったことはありません、と返した。
 ならば、とイエスはいった。持っているものをすべて売り払い、そのお金で貧しい人に施しなさい。
 すると男はこの言葉に気を落とし、悲しみながら帰って行った。この人はたくさんの財産を持っていたのである。
 帰って行くかれの後ろ姿を眺めながら、イエスは弟子たちにいった。財産のある者が神の国に入るのは難しい。ラクダが針の穴を通る方が易しいだろう。
 それでは誰が救われるというのですか、と弟子たちが訊ねた。
 イエスは答えた。人間にできることではないが、神にならできる。神にできないことはなにもない。
 そうしてペトロがイエスの前に進み出て、われらはすべてを捨てて従っています、といった。それにイエスが答えて曰く、──
 「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マコ10:29−31)

 マコ10:32−34〈イエス、三度自分の死と復活を予告する〉
 一行はいまやエルサレムを目指して進んでいた。その集団の先頭にイエスが立ったので、弟子たちは驚いた。イエスは12人の弟子たちを集めて、いった、──
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マコ10:33−34)

 マコ10:35−45〈ヤコブとヨハネの願い〉
 ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟がイエスに、どうか栄光を受けるとき、われらをあなたの左右に置いてください、とお願いした。イエスは拒んだ。それを決めるのは自分でなく、定められた人にのみそれが許されるからだ。
 兄弟の抜け駆けに憤る他の弟子たちを呼び集めて、イエスはいった、──
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ10:43−45)

 マコ10:46−52〈盲人バルティマイをいやす〉
 一行はエリコの町に到着して、次の出発の準備を調えていた。そこへエリコの住人でティマイの子バルティマイが来て、イエスに、視力を一切失ったこの目を治してほしい、と頼んだ。ダビデの子イエスよ、俺を憐れんでくれまいか。
 イエスはバルティマイを呼んで、いった、行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。
 するとこの盲人は目が見えるようになり、イエスのあとに従って歩いた。

 わたくしはこの章を、結婚にまつわるイエスの言葉と、財産ある者の神の国へ入ることの困難を伝えるイエスの言葉ゆえに、好む。自分の胸に、ぐさり、と突き刺さる。わたくしは神によって結びあわされるはずだった人を失って未だその代役を得られていない者であり、掟を守っても持っているものすべてを売り払ってまで他者に施して、<永遠>を得ることのできぬ者であるからだ。
 が、そうではあっても、である。何遍読み返してみても、この「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という件は良い。
 婚姻の聖性を強く烈しく意識させ、と同時にその結びつきが如何に重大で意義深いものであるかを感じさせる言葉だ。この素朴な言葉は、素朴であるがゆえにずっしりとした重みを持って読み手の胸に迫ってくる。そうして、いつまでも残る。共感と憧れと満足の溜め息しか出ない。およそ共観福音書のうちでいちばん美しい言葉ではあるまいか。

 本日の旧約聖書はマコ10:4と申24:1及び3,マコ10:6と創1:27及び5:2,マコ10:7−8と創2:24,マコ10:19と出20:12−16及び申5:16−20。



 寝しなに少しずつだが竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』(電撃文庫)を刊行順に読んでいる。21世紀になってシリーズのライトノベルを、かりに遅滞はあったとしても続けて読んだのは、記憶になる限りでは谷川流『涼宮ハルヒ』シリーズ(完読)と今野緒雪『マリアさまが見てる』シリーズ(第36巻で挫折)ぐらいでなかったか。そんな意味ではちょっと特筆すべき位置を占める作品と癒えるかもしれない。
 ずっと以前に本作については「読み始めた」という報告を行った。それから4巻あたりまでは読んでいたけれど、その後中断。時が経て完結したあと、改めて読んでみよう、と思い立ったきっかけがなんであったかは、正直よく覚えていない。<読書の時期、来たる>というだけでは説明不足だ。ベッドにいちばん近い書架にはずっと置いてあったから、機会あれば読むつもりであったのは間違いない。常日頃気にかけていた小説だったのだ。──たぶん、今回まとめて読もうと思うたのは、新潮文庫nexから同じ作者の『知らない映画のサントラを聴く』が刊行されたときであったかもしれない、と、いまこの瞬間ふと思い至った。そうだ、そんな作品があったけな……。
 『ゴールデン・タイム』をいま読み返してつくづく思うのは、この人の描く登場人物は実に良く「キャラ立ち」していて、繊細な描写を得手とする人のようであるな、ということ(キャラ立ち……好きではない言葉です。表現に困った際の伝家の宝刀、この言葉を用いれば自分の語彙の貧弱を棚に上げてあらゆる事象が代弁できてしまう即席麺のような言葉に思えて、なるべく使わないようにしています。それなのにここでこうして使ってしまったのは……自分の芸の足りなさの露呈ですね)。
 ライトノベルを読みこんでいる人にはもっと別の見方ができるのだろうけれど、如何せんわたくしにとってこの作者は描写の優れた、面白い小説の書き手という風にしか見ることができぬ。むろん、他の作品は読んだことがないから、あくまでこの一作に限っての話とはなるが。まぁ、当たり外れはあったとしても、自分の好みに左右されてしまうところも多いけれど、面白い小説の書き手としていまわたくしのなかに認知できているなかに、竹宮ゆゆこはいる、とだけはご報告させていただきたい。そんな意味では有川浩や三浦しをんと同格か。
 現在枕辺にある『ゴールデン・タイム』は第5巻「ONRYOの夏 日本の夏」。外伝である前作「二次元くんスペシャル」の後遺症もあってか、数日ぶりの本編に若干の停滞は感じたもものじゅうぶんに読書を愉しませてもらっている。既に完結した作品ゆえ結末もそこへ至る経緯も知っているけれど、それを抜きにしてでも純粋に作品世界へ身を浸し、心遊ばせる時間をもたらしてくれるライトノベルがあったことを喜び、新刊が出るたび買っていた当時の自分を讃えたい気分でいることを〆の言葉として書き残したい。
 なお、お気附きか知れぬが、聖書とドストエフスキーと『ゴールデン・タイム』は同時進行の読書なのである。◆

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