第1897日目 〈マルコによる福音書第11章:〈エルサレムに迎えられる〉、〈権威についての問答〉他withこれも、<ラ・ヴィアン・ローズ>か。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第11章です。

 マコ11:1−11〈エルサレムに迎えられる〉
 一行はオリーブ山東麓の町ベトファゲとベタニア郊外にさしかかった。イエスは弟子2人に命じて、町から、まだ誰も乗ったことのないロバを1頭、綱をほどいて連れて来させたのだった。2人が行ってロバの綱をほどいているとそれを見咎めた人がいたので、かれらは、イエスからあらかじめ教えられていたように、このロバを主が必要としています、すぐここに返します、と伝えて、許された。
 弟子たちがロバの背に自分たちのマントを掛け、イエスはロバに跨がった。そうして一行は出発した。町の人々が自分のマントを脱ぎ、道に敷き、ロバに乗ったイエスはそこを進んだ。一行の前を行く者も、後ろに従う者も皆一様に讃えた、──
 「ホサナ。/主の名によって来られる方に、/祝福があるように。/我らの父ダビデの来たるべき国に、/祝福があるように。/いと高きところに、ホサナ。」(マコ11:9−10)
 ──斯様にしてイエスはエルサレムに入城した。神殿の境内を見て回り、夕方になると12人の弟子たちを連れてベタニアへ戻った。

 マコ11:12−14〈いちじくの木を呪う〉
 翌る朝、エルサレムへ向かう一行は1本のイチジクの木を見附けた。ちょうどそのとき、イエスは空腹だったので食べられるような実はないか、と近寄ってみたが、なかった。実の生る季節ではなかったのだから、当たり前である。
 イエスは怒って、そのいちじくの木を呪った。今日から終わりの日まで、お前から実をもいで食べる物のないように!
 ──弟子たちはその様子を一部始終、見聞きしていた。

 マコ11:15−19〈神殿から商人を追い出す〉
 いちじくの木を呪ってエルサレムに入ったイエスは、神殿の境内に行き、そこで商いをする人たちがいるのを見て怒り、かれらをそこから追い出した(マコ11:15−16)。そうして、いった。主の家はすべての国の人にとって祈りの家と呼ばれるべき、と預言者イザヤがいっているのに、あなた方はそこを盗人たちの巣窟にしてしまった。
 これを聞いたファリサイ派や祭司長たち、律法学者たちは、どのようにしてイエスを殺そうか、と謀を巡らせた。民衆がイエスの教えに心酔し、信じていたので、念入りな殺害計画を練る必要があったのである。

 マコ11:20−26〈枯れたいちじくの木の教訓〉
 その次の日、イエスと弟子たちはあのいちじくの木の前を通った。前日のイエスの呪いのゆえか、枯れてしまっていることを弟子たちは話題にした。それを承けてイエスの曰く、──
 「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(マコ11:22−26)

 マコ11:27−33〈権威についての問答〉
 神殿の境内を歩いていたイエスの許に、祭司長や律法学者たち、民の長老たちが来て、あなたにどのような権威があってこのようなことを行っているのか、どのような者があなたにそうした権威を与えたのか、と問うた。よろしい、わたしの質問に答えられたら、わたしもあなた方の質問に答えよう。イエスはそういうと、かれらに尋ねた。──洗礼者ヨハネの授ける洗礼は人からのものか、天からのものか。
 祭司長たちや律法学者、民の長老たちは返答に窮した。洗礼者ヨハネの授ける洗礼が天からのものだ、と答えれば、ならばどうしてヨハネを信じなかったのか、といわれるから。もしそれが人からのものである、と答えれば……嗚呼! 自分たちはきっと民の暴動の犠牲となって死ぬであろう。民衆は洗礼者ヨハネを本当に預言者であると思い、信じていたからだ。もしヨハネの行う洗礼が人からのものだ、と答えたら、自分たちは人殺しである、かれらの信じるヨハネを殺めた下手人である、自分たちの立場はおろか命さえ危うかろう。それにかれらは思い至った。為、かれらは結局、わからない、と返事せざるを得なかったのだ。
 では、わたしもあなた方の質問には答えない。そうイエスはいった。

 イエスと、祭司長や律法学者たち、民の長老たちとの権威についての問答。これは人を食ったようなイエスの問い掛けから発展した。──先駆者ともいえる洗礼者ヨハネの死について、お前たちはどのように考えているのか、思うところを口に出せるか、ヨハネの授ける洗礼が天からのものであろうと人からのものであろうとお前たちに語るべき言葉も正義もないはずだ、違うか?──イエスはそう問い掛ける。祭司長や律法学者たち、民の長老たちが返答に窮したのは至極当然だ。誰だって答えられようはずがない。自分の命運はすぐそこで潰え去ることがわかっているから。しかしこの問い、ヘロデ・アンティバスならどのように答えただろう?
 ベトファゲとベタニアはオリーブ山を間に置いて、エルサレムの反対側にある。ベトファゲは本日の並行箇所であるマタ21:1に、ベタニアはマタ26:6とその並行箇所である本書14:3に出る。
 この2つの町(村かもしれぬ)はオリーブ山東麓に位置し、ヨルダン川と死海を望む傾斜地にある、という。エルサレムからはゲツセマネの園を通り、オリーブ山の南を巡ってベトファゲとベタニアへ至る街道がある。地図から判断する限りでは行程約6−7キロといったところだが、実際のところはどうなのであろうか。これはむろん往復できる距離ではあるけれど、エルサレム−ベトファゲ/ベタニア間の高低差を考えれば結構な運動量となり、相応の疲労が蓄積されることだろう。イエスと弟子たちのように数日だけであればなんとか耐えられますよ、といわれれば返す言葉もないが……。
 本ブログ完結後、聖書の舞台を訪ね歩く旅行をしてみたいのだけれど、その折は是非エルサレム−ベトファゲ/ベタニア間の道程や地勢を知り、そこからどのような景色が見えるのか、どのような風が吹いているのか、どのような空気に満たされているのか、といったことを感じてきたいものである。
 なお、引用したマコ11:23にある「この山」とは、一行の行程と位置関係、「この」という連体詞から、勿論、オリーブ山を指す。



 社食のメニューを餌に追加出勤の目に遭った。まあ、そのお陰で昼過ぎに早上がりができ、宙に浮いた半日で「マルコによる福音書」の読書ノートを終わらせ、映画も観て、キリン・シティで黒ビールと料理をじっくり堪能することができたのだが。
 ああ、いいな。毎日を静穏に、平穏に、大過なく暮らすことができること。(おそらくたぶん)年齢相応に健康で、仕事があって同僚に恵まれ(一部除く)、こうして好き勝手に本を読み文章を書けていること。どれもこれもが幸福だ。
 市井の幸せ──伴侶も子もなく死ぬことになるのだろうけれど、いつも胸に浮かぶのは「いまがいちばん幸せ」という父の口癖。本当に、そうなんだ。◆

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