第1903日目 〈マルコによる福音書第16章:〈復活する〉、〈マグダラのマリアに現れる〉他with読書終わりのご挨拶。〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第16章です。

 マコ16:1−8〈復活する〉
 安息日、即ちニサンの月の14日土曜日が終わり、週の始まりの日の朝早くのことである。
 マグダラのマリア、ヤコブとヨセフ兄弟の母マリア、イエスの女弟子サロメは、イエスの遺体に油を塗るため香料を買った。そうして誰があの方のお墓の石をどかしてくれるのでしょうね、と互いにいいながら、イエスの墓所へ向かった。
 すると、アリマタヤのヨセフによって塞がれたはずのイエスの墓所は暴かれていた。石は脇へ転がされていたのである。女たちは非常に驚き、恐る恐る墓室のなかへ足を踏み入れた、──
 「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちは非常に驚いた。
 若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。』」(マコ16:5−6)
 若者は続けて、ペトロたちにあの方の復活を伝えなさい、あの方はあなた方よりも先にガリラヤへ行く、といった。
 女たちは震えあがって墓所から逃げ出し、恐ろしさのあまりに正気を失って気絶した。彼女たちはそのことを誰にも告げなかった。

 結び 一
 マコ16:9−11〈マグダラのマリアに現れる〉
 十字架上で息を引き取ったイエス。かれは週の始まりの日の早朝に復活して、まずマグダラのマリアの前に現れた。彼女はイエスの死を嘆く人々のところへ行ってこのことを伝えたが、誰もイエスが復活したこと、マリアの前に現れたことを信じなかった。

 マコ16:12−13〈二人の弟子に現れる〉
 マリアから復活のことを聞いても信じなかったうちの二人が田舎を歩いているとき、イエスは別の形でかれらの前に自身を示した。かれらはイエスの死を嘆く人々のところへ戻ってこのことを伝えたが、誰もイエスが復活したこと、かれらの前に現れたことを信じなかった。

 マコ16:14−18〈弟子たちを派遣する〉
 そのあとイエスは、11人の弟子たちが食事をしているところへ現れて、自分の復活を信じぬかれらの不信仰とかたくなな心を咎めた。そうしてイエスはいった、──
 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マコ16:15−18)

 マコ16:19−20a〈天に上げられる〉
 弟子たちに斯く告げると主イエスは天に昇って神の右の座に着いた。
 「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(マコ16:20a)

 結び二
 マコ16:20b
 婦人たち──マグダラのマリアたち──は(イエスの墓所で出会った天使から)指示されたことを手短に、ペトロや弟子たちへ伝えた。
 「イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。」(マコ16:20b)

 マコ16:20bはそのまま第20節aに繋がるのではなく、文章から推してマコ16:8に繋がるものと思う。なにも疑わずに頭から尻尾へ読み進むと、時折今回のわたくしのようなあまりに正直すぎる読み方をしてしまうので、注意が必要だ。
 さて。
 「マルコによる福音書」の最終章である。根強く信じられ、語られ、検証と研究がされてきた上で支持される節に拠れば、本来「マルコ」は第16章第8節で終わっており、第9節以後は後年の加筆であるそうだ。それも「マタイ」と「ルカ」の影響が指摘される。先行していた「マルコ」を基に「マタイ」と「ルカ」が書かれた後、それらから逆輸入されるような形でマコ16:9以後の、イエス復活後の短い挿話群が「マルコ」に追記された、というのだ(「ヨハネ」については自分にはまだよくわからないから保留とする)。
 たしかにもし「マルコ」が第16章第8節で幕切れとなっていたら……実に「あんまりな」終わり方である。ここまで読んできた身にしてみれば、イエスの復活が語られることなくマリアたちの気絶で終わる福音書なんて、木戸銭返せ、と文句の一つもいいたくなるよ。すくなくとも、相応しからぬ幕切れを持つことに不満と疑問を抱かぬ読者はまずあるまい。
 真相はやっぱり<藪の中>であるけれど、この点に関してヴァルター・クライバーの曰く、「この福音書の結末は独特である。(中略)復活後の顕現は16章7節で予告されているが、マルコはそれを復活後の教会の宣教内容にぞくするものと考えたので、あえてもう報告しようとしなかったのだろうか。マルコは『神の子、イエス・キリストの福音の始め(!)』(1:1)という題名の著作では、あえてこの境界線までしか達しようとはせず、それを踏み越えることを欲しなかったのだろうか」(『聖書ガイドブック』P232-3 教文館)と。

 本日の旧約聖書はマコ16:19と詩110:1。



 本日を以てやや更新ペースに乱れと錯綜した感のある「マルコによる福音書」の読書ノートは終わりです。随分と原稿のストックはあったはずなのに、自分の側による一方的な理由によって読者諸兄を困惑させてしまったことをお詫びします。
 それと共に、ここまでお付き合いくだすった皆様に感謝します。
 第3番目の福音書、「ルカによる福音書」読書ノートの始まりがいつからになるか、正直なところいまのわたくしにはお答えできません。可能な限り早い段階で再開をしたいと思いますが、現時点ではこのような曖昧模糊とした台詞しか口にできず申し訳ない。
 ところで、先達て申しあげていた椎名へきるのレヴュー・ブログの件ですが、長く考えた末に本ブログへの統合することを決めました。聖書読書ノートブログの再開までは、そちらで公開していた記事の再掲載でご寛恕願いたく存じます。
 4月中には本ブログの再公開の希望がかなえばいいのですが……。◆

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