第1947日目 〈ルカによる福音書第7章:〈百人隊長の僕をいやす〉、〈罪深い女を赦す〉他with竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』を読了しました。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第7章です。

 ルカ7:1-10〈百人隊長の僕をいやす〉
 カファルナウムの町に入ったイエスの許へ、ユダヤ人の長老たちがやって来た。かれらは百人隊長の部下が床に就いて死に瀕しているのをイエスへ知らせに来たのだった。長老たちが件の百人隊長を評していうに、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(ルカ7:4-5)と。
 イエスは長老たちと一緒に百人隊長のところへ赴いた。すると向こうから百人隊長が来て、イエスにいった。主よ、わたしはあなたを迎えられるような者ではありません、それゆえ人を遣わしてあなたをお迎えにあがらせたのです、どうか一言仰り、わが僕を救ってください。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(ルカ7:8)
 イエスはこれに感心して百人隊長を誉め讃え、そうしてかれの僕を癒やして元気にした。

 ルカ7:11-17〈やもめの息子を生き返らせる〉
 ガリラヤ地方の南部にナインという町がある。イエスはそこを訪れた。ちょうど或るやもめの一人息子が死んでその棺が担ぎ出されるところだった。
 町の人々が大勢その母親に寄り添っているのを見て、主イエスは憐れに思い、そばに行って、泣かなくてもよい、と声を掛けた。そうして棺に手を掛け、なかの息子に語りかけた。起きて出てきなさい。
 すると、降ろされた棺から息子が起きあがって話し出し、母親の許へ帰った。また、この光景を見たナインの町の人々は驚き、恐れ、神を讃美した。「神はその民を心にかけてくださった。」(ルカ7:16)
 このことはたちまちユダヤの全土と周囲一帯に広まったのである。

 ルカ7:18-35〈洗礼者ヨハネとイエス〉
 イエスの行う数々の奇跡の報告が、獄中のヨハネへ弟子の口から伝えられた。ヨハネは弟子たちに、イエスのところへ行ってこう訊ねなさい、と告げた──来たるべき方はあなたですか、それとも他の方を待たねばなりませんか。
 弟子たちはイエスの許へ行って、師ヨハネの言葉を伝えた。それにイエスが答えて曰く、あなたたちが見聞きしたことをそのまま伝えなさい、と。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ7:22-23)
 ヨハネの弟子たちはイエスの言葉を胸に、洗礼者ヨハネのところへ帰った。
 かれらが帰ったあと、イエスは群衆に向かって語りかけた。あなたたちは荒野でなにを見たのか。そうだ、預言者以上の者をあなた方は見たのである。あなたの前に使者を遣わし、道を整える準備をさせよう、と或る預言書に書いてあるのは、かれ、洗礼者ヨハネのことだ。かつて女の胎から生まれたなかでヨハネ以上の者はない、が、神の国で最も小さい者でもかれに優って偉大である。
 「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。」(ルカ7:29-30)
 イエスは続けて、いった。「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。/葬式の歌をうたったのに、/泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
 しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」(ルカ7:31-35)

 ルカ7:36-50〈罪深い女を赦す〉
 或るファリサイ派の人がイエスと一緒に食事をした。その町には、「一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7:37-38)──ファリサイ派の人はその光景を見て、イエスが本当に預言者ならば、この女がどれだけ罪深い者であるか、すぐにわかるはずだ、と考えた。
 イエスは弟子シモン・ペトロを呼んで、訊ねた。500デナリオンの負債を抱える人と50デナリオンの負債を抱える人がいる。貸し主は或るとき、2人の借金を帳消しにしてやった。ではかれらのどちらが貸し主の厚意に感謝して愛するだろう。
 シモンが、当然負債の大きかった人の方です、と答えた。イエスはその返事に頷いた。その通りだ、といって。
 では、とイエスは罪深き女に目を転じてシモンに訊ねた。この女は、わたしがあなたの家に入ったときあなたがしてくれなかったことをすべてしてくれている。自分の涙で足を洗い、何度となく接吻の挨拶をし、足に香油を塗ってくれた。はっきりといっておくが、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)
 イエスはかの女に、あなたの罪は赦された、といった。「あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ7:50)
 食事の席に居合わせた人たちは、人の罪を赦すことの出来るこの人はいったい何者なのだろう、と不思議に思い、囁き交わした。

 〈罪深い女を赦す〉は「ルカによる福音書」にのみ載る記事である。この罪ある女を一部ではマグダラのマリアである、という。その根拠が如何なるものかわたくしには不明だが、これが誰であってもイエスの愛の深さを垣間見させ、道を踏み外してそこに立ち帰ろうとする者についてイエスは公平であることを伝える挿話なのは事実。それを端的に示したルカ7:47(赦されることの少ない者は、愛することも少ない。)は、信徒でなくても胸に刻んで反芻する機会あってよい言葉だと思う。



 竹宮ゆゆこ『ゴールデン・タイム』(電撃文庫)全11冊(本編8巻、別巻3)を読了しました。が、感想の言葉なんて破片すら思い浮かばないというのが現在の状況。自分のなかで今一つ、本作についての判断が付きかねているのだ。
 作品としては良作と思う。おそらくこの先、『ゴールデン・タイム』は処分しないだろう。本作は良い雰囲気、世界観、描写に満ちた作品であった。この思いに偽りはない。
 が、物語世界を生きる登場人物はどうか。単刀直入に申して、巻を重ねるに従って皆、多少なりとも生彩を失ってゆき、どの人物に思い入れをすることも難しくなってしまった。
 殊に主人公、多田万里。果たして本当に記憶喪失者なんて設定は必要だったのかな。本当に記憶喪失という設定が必要だったなら、もう少し説得力のある書き方ができなかったものか、と思う。きちんと取材しました、文献も調べました、とかりに反駁されても、あまり納得できるものではない。作品を読んでいる限りでは主人公を特徴附けるために<記憶喪失>という設定にしました、それっぽく描きました、としかこちらには受け止められない。
 殊田万里について申せば、自分が追い詰められると誰彼に対して半ギレ、逆ギレし、相手構わず噛みついてゆくところなぞ、正直読めたものではなかった。こうした場面については勢いを失ってはならぬが、いったい作者は当該場面について推敲をきちんとしたのであろうか。勢いに呑まれて作者も冷静を失い、然るべき推敲が為されなかったのではないか。そんな邪推さえできてしまう程だ。
 『わたしたちの田村くん』や『とらドラ!』(共に電撃文庫)もこの機会に読んだが、共通して感じたのは、この作者は男性を描くのがあまり上手くないなぁ、ということ。その造形を指して、ステレオ・タイプというのも憚られる。非難を承知で申せば、ハリボテ、か。主人公とその友人、柳澤光央と佐藤隆哉(二次元くん)のやりとりは血もなければ肉もない人形劇を見ているような気分にさせられる。
 翻って女性の描き方の巧みさは、こちらが参考にさせていただきたいぐらいだ。やや服飾の描写でごまかされている部分もないではないが、主要男性陣と対になる女性たちについては、さすが、と思わせられてしまう。なんだろう、妙に生々しく思えてならぬ瞬間が、読書中に何度もあったのだ。もっと年若い頃にこの物語と出会っていたらば、わたくしは必ずや加賀香子に心奪われて女性の好みを狂わされ(=理想の基準が高くなり)、また岡千波や別巻でしか登場していないはずの愛可など愛くるしいことこの上ない。
 『ゴールデン・タイム』に続く最新作として刊行された『知らない映画のサントラを聴く』(新潮文庫nex)も読んだが、そこにどのような事情が働いているか知るべくもないが、竹宮ゆゆこは前者のようなシリーズ物よりも後者のような単発作品でこそ、自身の特性を遺憾なく発揮できるのではないか。そんな意味では『わたしたちの田村くん』はとてもよくまとまった、しかも唸らされる程優れた作品であった。たぶん、この作者は、1年なら1年というタイム・スパンのなかで繰り広げられる物語を細分化して描いてゆくようなスタイルを得手とする人ではない。プロットを作成して緻密に練りあげてゆくよりも、物語の展開に身を任せて疾走感あふれた作劇を醍醐味とするタイプなのだろう。
 本書(と『知らない映画のサントラを聴く』)を読んで、竹宮ゆゆこは自分にとっていましばらくは新作を心待ちにしていたい作家となった。だがしかし、おそらく『ゴールデン・タイム』がわたくしにとって、読書に没入できた最後のライトノベルのシリーズ物となる。◆

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