第1941日目 〈ルカによる福音書第1章:〈献呈の言葉〉、〈洗礼者ヨハネの誕生、予告される〉他with小稿「わがライトノベル史」はしがき(っぽいもの)〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第1章です。

 ルカ1:1-4〈献呈の言葉〉
 テオフィロさま、申しあげます。むかしイエスが起こした数々の奇跡や癒やしの業を目撃した人々、イエスの言葉を直接聞いた人々によって伝承せられた話を基にして、いまやイエスの物語は多くの者によって書かれております。
 そこでわたしもイエスの生涯、言行について資料を広く渉猟、調べあげて、それらについて筆を執り、正しい順番に語り直した上でテオフィロさまへ著作を献上しようと思います。
 といいますのも、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」(ルカ1:4)一念からであります。

 ルカ1:5-25〈洗礼者ヨハネの誕生、予告される〉
 於エルサレム、大王ヘロデの御代。かつてダビデにより制定された24組の1つ、アビヤ組にザカリヤという祭司がいた。妻の名はエリザベト。神の前に正しく、主の掟と定めをよく守る敬虔な夫婦であった。
 或る日、くじ引きによってザカリヤは主の聖所に入って香を焚く役に決まった。他の祭司たちは皆、聖所の外で祈りをささげていた。総したときである、聖所のなかのザカリヤのそばに大天使ガブリエルが現れて、香壇の右に立った。その様子にびっくりし、不安になっているザカリヤにガブリエルがいった、──
 やがてあなたとエリザベトの間に男の子が生まれる。「その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:13-17)
 しかしわたしも妻も高齢です、とザカリヤはいった。どうして子供を授かるなどということがありましょうか、なにによってわたしはそのことを知るでしょう。
 不信のザカリヤにガブリエルはいった。わたしは神の前に立って、この喜ばしい言葉をあなたへ伝えるよう遣わされた者。あなたはわたしの言葉を信じなかった。ゆえにわたしはあなたの口を利けないようにし、時が来てこのことが実現するまで話すこともできないようにする。
 天使ガブリエルが語り終えるとその姿は消え、ザカリヤは聖所の外へ出た。聖所の外でザカリヤを待っていた人々は、かれが口が利けなくなっていることに驚いた。
 ──やがて奉職の時期が終わってザカリヤは家に帰った。やがてエリザベトは妊娠した。彼女は喜んだ。

 ルカ1:26-38〈イエスの誕生が予告される〉
 エリザベトが妊娠して6ヶ月、天使ガブリエルがガリラヤ地方の小村ナザレへ神によって遣わされ、ダビデの家の末裔大工のヨセフの婚約者マリアの前に現れて、いった、──
 喜びなさい、恵まれた方。主はあなたと一緒にいます。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:31-33)
 マリアは、包み隠さず白状した。しかしわたしはまだ男性を知りません。すると天使は、聖霊があなたに降っていと高き方の力があなたを包む、と答えた。それゆえに男の子は聖なる者、神の子と呼ばれる。そのあと、天使はマリアの親類祭司アロンの家の娘エリザベトも男の子を身ごもっている旨伝えた。
 わたしは主の辱め女です、お言葉通りこの身に命を授かりますように、とマリアがいうと、天使ガブリエルは去って行った。

 ルカ1:39-45〈マリア、エリザベトを訪ねる〉
 こうしたことがあった後、マリアは急いでナザレを出発、南へ向かい、ユダの山中に暮らす親類エリザベトを訪ねた。マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、彼女の胎内の子が踊った。エリザベトはマリアを祝福して、いった、──
 「わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」(ルカ1:43)お腹のなかの子もあなたを祝福しています。ああ主の言葉の実現を信じた人はどんなに幸いなのでしょう。

 ルカ1:46-56〈マリアの賛歌〉
 マリアは主を讃える歌をうたったあと、3ヶ月ばかりエリザベトの許に滞在してからナザレに帰った。
 「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者というでしょう、/力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。」(ルカ1:48-49)

 ルカ1:57-66〈洗礼者ヨハネの誕生〉
 やがて月が満ちて、エリザベトはかねてから予告されていたとおり、男の子を産んだ。これまで子供の授からぬ身であったエリザベトが妊娠し、ぶじに出産を終えたことを知った町の人々は、主がマリアを憐れみ慈しんだのだ、といって喜び合った。
 8日目。人々が割礼を施すために来て、生まれた男児に父親と同じ名を与えようとしたところ、エリザベトは一人抗弁してヨハネと命名することを主張した。人々は戸惑った。というのも、ヨハネという名を持つ者が、エリザベトの血縁者にもザカリヤの血縁者にもいなかったからである。
 困惑した人々は未だ喋ることかなわぬザカリヤに、息子の名をどうするか、と手振りで訊ねた。ザカリヤは板を手にすると、わが子の名はヨハネとする、と書き付けて皆に見せた。するとザカリヤは再び口が利けるようになり、主を讃美する歌をうたったのであった。
 ──このことはユダヤの山中でたいそう評判になり、皆が心に留め、ザカリヤとエリザベトの息子の行く末について思いを巡らせたのだった。

 ルカ1:67-80〈ザカリヤの預言〉
 「主はその民を訪れて解放し、/我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。/昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。」(ルカ1:70)
 「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。/主に先立っていき、その道を整え、/主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。」(ルカ1:76-77)
 ──こうしてヨハネと名附けられた幼な子は、身も心も健やかに正しく育ち、イスラエルの人々の前に登場するまでは荒れ野で過ごした。

 <前夜>でも触れたように「ルカ」はイエス誕生の前史を語り、時代背景と活動舞台を提示することで、イエスという不世出の人の登場が必然であったことを指摘して、これが旧約聖書の時代から伝えられてきたメシア預言の成就であることを伝える。
 福音書は勿論イエスの公生涯を語ることをの目的とする、かれの説いた福音と愛を伝え、かれの行った奇跡とふしぎな業を記録する書物であるが、「マタイ」、「マルコ」共にイエスの生きた時代がどのようなものであったのか、歴史的背景を語ることは殆どせず、またそれについてまるで関心がないと疑われても仕方のない書物であった。それと様相を異にするのがこの「ルカ」である。専らイエスの公生涯が始まるまでの期間に限定されてしまうきらいはあるが、「ルカ」は要所で時代背景について説明を加える。第2章、第3章それぞれの冒頭部分はその好例であろう。この点を以て「ルカ」の著者が教養ある知識層に属すると考えるのは早計だが、このような歴史感覚を細部で発揮する筆致と構成には、やはり相応の能力がなくては務まらないのではないか。
 わたくしはこれまで、聖書の概説書など読んでいて1つ気になってならぬことがあった。イエスの生涯を語る際、「マルコ」と並んでこの「ルカ」が目立つのはどうしたわけだろうか、と。いまだって結論を得られたわけでは、むろん、ない。もしかするとこれは正典として認められた福音書のうちでほぼ唯一幼少期のイエスの姿を描いて、それが生彩であることや、歴史的文脈にイエスの人生を取りこんだことで活動の背景を推定しやすく、かつ典拠とするに信を置くに値するだけの正確性と伝記性を備えた書物であることが、大いに関係しているかもしれない。「ルカ」の読書を実際に初めて約10日、そう思うことしばしばなのである。
 洗礼者ヨハネとイエスの母が親類である、と述べるのも本福音書のみである。歴史と預言成就を両立させることに腐心した結果なのか、或いは現実にそうであったのか、定かでないけれど、かれらの誕生がそもそもの始めから計画されていたことであり、避けようなき宿命、揺るぎなき神の決定事項であったことを推測させる記述ではある。当時のイスラエルの民、イエス亡きあと地道に宣教した使徒とその弟子立ち、そうして今日に至るまでに現れた数多の熱心かつ敬虔なキリスト者らにとっては、ヨハネとイエスが血縁にあることは、そんな風に映るのかもしれない。
 「ルカによる福音書」と「使徒言行録」をルカから献呈されたテオフィロなる人物がどのような素性の者なのか、どのような地位にあって著者とどのような関係性を持っていたのか。実際のところはわかりかねるが、おそらくはローマ帝国の高官であっただろう、と考えられている。執筆場所がアンティオキアやカイサリア、或いはローマとされることからテオフィロもいずれかの地に在ってその任にあたっていたのかもしれない。「ルカ」や「使徒言行録」から推測できるのは、先に述べたようにかれがローマ帝国の高官であり、また、キリスト者であった、ということである。ただキリスト者というても献呈の序文からは未だ信徒というわけでなく、キリスト教をルカその他の人物から教授され、その教えについて多少は知るところがある程度の新参者、或いはその一歩手前にいる人物であろう、と想像できるが精々だ。実際のテオフィロはどのような人物だったのだろう。

 本日の旧約聖書はルカ1:33とサム下12:12-13及び16,ルカ1:69-70とエゼ29:21。



 先月の終わりだったかな、馴染みのクラブにいる読書家の女の子と小説の話をしていると、なんの拍子か、話題がライトノベルに至ったのである。
 話をしていてつくづくと、自分の小説読みの歴史は、今日ライトノベルというジャンルに括られる作品群から始まったのだなぁ、と実感。コバルト文庫と朝日ソノラマ文庫を町の本屋で立ち読みし、高校生になったら新刊書店と古本屋を渡り歩き、好きそうな作品をお小遣いの許す限りで買い漁り、<小説を読む面白さ>を知ったのだ。
 赤川次郎とか笹本祐一とか高千穂遙とか、久美沙織とか氷室冴子とか新井素子とか、王道というか定番というか、見方を変えればなんの捻りもないセレクトだけれど、その他にも勿論、面白いと思うて読み耽った小説は幾らだってある。ただわたくしが覚えていないだけの話だ。えっへん。
 徒事はともかく、その晩の楽しい会話に触発されて、「ルカによる福音書」の読書ノートを執り始める直前まで「わがライトノベル史」みたいな文章を書いていた。が、なんだか締まりのない、まるでダイエットに失敗してリバウンドしたみたいな趣の文章となってしまい、それは大規模な整形手術を施さない限り、とてもではないが他人様の目には触れさせられないような代物である。フランケンシュタインの怪物もかくや、といわんばかりの、それ。
 しかしながら、わたくしにはこの文章を完成させる意思がある。なかばそれを義務とも思う。お披露目がいつになるのか、皆目見当が付かないけれど、約束ゆえにかならず陽の目を見させることを誓おう。
 ──わたくしはいま、なんの因果か、某新古書店の近くにいる。では、諸君、小説の棚を漁って児玉清いうところの<面白本>を渉猟しに行こう。ターゲットは勿論、ライトノベルである。◆(59)

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