第1948日目 〈ルカによる福音書第8章:〈婦人たち、奉仕する〉、〈悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす〉他with実は、カフカを読みたくなったのだ!〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第8章です。

 ルカ8:1-3〈婦人たち、奉仕する〉
 ファリサイ派の人の前で罪深き女を赦した後、イエスは野や山を巡って神の国の福音を宣べ伝えた。それには12人の弟子が同行した。
 また、群衆の他に悪霊を追い出してもらった婦人たち、即ちマグダラのマリア、ヘロデ・アンティバスの家令グザの妻ヨハナ、スサンナ、その他多くの女性たちが従いて歩いた。彼女らはイエスとその弟子たちの身の回りの世話をした。

 ルカ8:4-8〈「種を蒔く人」のたとえ〉
 於カファルナウム。ここにいるイエスを慕って諸処の町から人が集ってきた。そんなかれらを前にイエスが喩え話をした。種を蒔く人が種を蒔きに行ったところ、──
 或る種は道端に落ちて、人に踏まれ、鳥に食べられた。
 或る種は石ころばかりの場所に落ち、水気がないので枯れてしまった。
 或る種は茨のなかに落ちたが育った茨に上を塞がれ、伸びなかった。
 或る種は肥沃な土地に落ちてよく育って実を結び、それは元の100倍になった。
 聞く耳がある者は、これを聞きなさい。

 ルカ8:9-10〈たとえを用いて話す理由〉
 弟子たちにこの喩え話の意味を問われてイエスの曰く、──
 あなた方には神の国の秘密がそのまま語られるが、他の人々には喩えを用いてそれが示される。預言者イザヤの言葉にあるように、見ても認めず、聞いても理解できず、立ち帰って赦されることがないようにするためである。

 ルカ8:11-15〈「種を蒔く人」のたとえ〉
 種を蒔く人とは即ち神の言葉を蒔く人のことだ。
 道端に落ちた種とは、御言葉を聞いてもすぐにサタンによってそれが奪われてしまう人々のことである。
 石ころだらけの土地に落ちて根附かぬまま枯れた種とは、三日坊主で、後々御言葉ゆえに困難と遭うとすぐつまずく人のことをいう。
 茨のなかに落ちて実を結ばなかった種とは、御言葉を聞くには聞くけれど、実生活の憂いや悩み、富の誘惑、様々な欲望によって心が惑い、それらによって聞いた御言葉を忘れたり、失ってしまうような人々を指す。
 よく育って実を結んだ種とは、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8:15)

 ルカ8:16-18〈「ともし火」のたとえ〉
 灯し火とは即ち神の言葉である。
 それは燭台の上に置かれる。すると隠れているもので露わにならないものはなく、秘められたものであっても人に知られず公にならぬものはない。
 ゆえ、「どう聞くべきか注意しなさい。」(ルカ8:18a)
 そうして、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8:18b)

 ルカ8:19-21〈イエスの母、兄弟〉
 或るとき、イエスの母親とかれの兄弟が訪ねてきたが、そのときエイスは説教中だった。
 気を利かせた者がそれを伝えたが、応じたイエスの曰く、わたしの母、兄弟とは神の言葉を聞いて行う人々のことだ、と。

 ルカ8:22-25〈突風を静める〉
 ガリラヤ湖の対岸へ渡るときである。湖上に突風が吹き、水面は大いに荒れた。乗船する弟子たちはイエスに、どうにかしてください、溺れそうです、と訴えた。これにイエスは応じて風と荒波に一喝、湖面は凪いだ。
 イエスは弟子たちに問うた。あなた方の信仰はどこにあるのか。
 が、弟子たちはイエスのこの行為を目撃しても、いったいこの人は何者だろう、と訝るばかりだった。

 ルカ8:26-39〈悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす〉
 ガリラヤ湖を渡って対岸、即ちデカポリス地方のゲラサ人の土地へ到着した。イエスが舟から下りると、すぐに汚れた霊に取り憑かれたゲラサ人が来た。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
 神の子イエスよ俺に構うな、後生だから苦しめてくれるな。わが名を訊くか、イエス。わが名はレギオン、大勢だから。
 レギオンは、どうかわれらを底なしの淵へ行け、などと命じてくれぬようイエスに乞うた。そうして周囲の山で餌を漁る豚の群れを指して、われらをあの豚どものなかへ入れてくれ、と願った。イエスはそうさせた。汚れた霊に取り憑かれた豚の群れは次々と湖目がけて走り出し、そうして終いには溺死した。
 この様子を見ていた豚飼いたちは、恐ろしさのあまりその場を逃げ出し、村にこの出来事を知らせた。村人たちは、どうにも信じられぬ、といった風で、豚飼いたちと一緒にイエスのところへ行った。すると、それまで悪霊に取り憑かれていた男が身なりを整え、端座して正気に戻っているのを見て、びっくりしてしまったのである。事の次第を説明されると人々はいよいよ気味悪がり、イエスに向かって、さっさとこの土地から出ていってくれ、と要求した。イエスたち一行はそうした。
 と、かれらのあとから件の男が追ってきて、自分も一緒に連れて行ってほしい、と頼んだ。イエスはそれを拒み、自分の家に帰るよう諭した。「神が自分に行ったことを皆に、ことごとく話して聞かせなさい。」(ルカ8:39)
 ──その人は帰って、家族や近隣の人々へ、イエスが自分に対して行ったことを語り聞かせた。

 ルカ8:40-56〈ヤイロの娘とイエスの服に触れる女〉
 再びガリラヤ湖を渡ってカファルナウムの町へ戻ったイエスの許に、ヤイロという名の会堂長が来て娘の重態を告げ、助けてほしい、と頼んだ。イエスは諾い、弟子たちを連れてヤイロの家に向かった。当然、かれにくっ付いて回る群衆もぞろぞろと。
 その途中のこと。12年間も出血の止まらない女がいた。彼女はイエスが来ていることを知り、その人の服にでも触れれば病は癒えるかもしれない、と一縷の希望を抱いて群衆のなかへ紛れこみ、ようやっとイエスの服の裾に触れたのである。と、たちまち彼女の病は治り、出血もすぐに止まった。これまでは全財産を処分して治療に臨んでも治らなかったのが、イエスの服の衣に触れた途端、完治したのだった。
 ところでイエスは、自分の体から力が、すうっ、と抜けてゆくのをふしぎに感じて、あたりを見廻した。誰がわたしの服に触れたのか。弟子たちは、これだけの人が周囲にいるのですから、誰が先生の服に触れたかなんてわかりません、と答えた。
 このやり取りを聞いていた件の女は恐ろしくなり、それは自分です、と名乗り出た。そうして事情を打ち明けた。イエスは病の癒えた女にいった。あなたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい。
 ──イエスと女がまだ話しているとき、ヤイロの家から人が来て、かれの娘が息を引き取ったことを知らせた。
 イエスは娘の父であるヤイロとその妻、弟子のペトロ、ヤコブとヨハネ兄弟だけを連れて、会堂長の家に入った。そうして娘の死を嘆き悲しむ人たちにこういった。その子は死んでいるのではない、眠っているだけである。嘲笑する人たちを無視してイエスは娘の手を取り、そうしていった。少女よ、起きなさい。
 すると娘は目を覚まし、起きあがって歩き出した。人々はこの様子を見て腰を抜かすほどに驚いた。すっかり我を忘れて口も聞けないぐらいだった。
 イエスはこのことを誰にも知らせぬよう厳しく言い置き、また彼女になにか食べさせるよう命じた。

 イエスの女弟子のなかで、すくなくとも名前だけでも最も有名なのは、ルカ8:2で言及されるマグダラのマリア(マリア・マグダレネ)だろう。先の2福音書でも彼女の名前は出るが、イエス処刑を見守り、また復活に立ち合った/目撃した場面に於いてであり、おそらくそれ以前の挿話での登場は本章が初出ではあるまいか。
 「七つの悪霊を追い出していただいた」というのが、「ルカ」本文にあるマグダラのマリアの説明である。この件は正典では触れるものがない様子なのが残念だが、外典・偽典の類ではどうなのだろう。かりに短くとも断章であっても構わぬから、あるなら一遍読んでみたい。
 ガリラヤ湖東南のデカポリス地方はゲラサ人の地で、イエスは何度も悪霊に取り憑かれた男を解放した。その男はカファルナウムに戻ろうとするイエスを追って、自分も連れて行ってほしい、供にしてほしい、と願った。果たしてこの男が斯く行動したのは、単純にイエスを敬ってのことであったろうか。むろん、それもかれなりの動機であったろう。
 が、わたくしにはどうもそれだけとは思えぬ。そこにはなにかもう1つの理由、もしかするとそれこそ本心だったのではないか、と思えてならぬ理由があるように読めるのだ。わたくしはこう読む、かれは自分の居場所をイエスの弟子、群衆のなかに得ようとしたのは、もはやかれがデカポリスのその地に留まることが出来なくなったからではあるまいか、と。
 村人はかれの体から悪霊を追い出したイエスを恐れた。そうして村から出て行ってくれるよう頼んだ。同様に、悪霊から解放された男も村人から怖がられたのではないか。正常に戻った自分を嫌悪し、未だ汚らわしいものを見るような眼差しを向け、陰で中傷と嘲笑、悪口を囁いているかのような素振りを見せ、どんどんと精神的に袋小路へ追いつめられて急き立てられるかのような焦燥感を、短時間の間にかれは抱いた。
 かれがイエスに従いてゆくのを望んだ真意は、悪霊憑依以前の健常な生活に戻ることを阻む村人たちからの逃亡にあったのではないだろうか。斯様な環境から逃げ出したい、という一念がかれをイエス追従に駆りたてた。その原因……かれ自身にまるで非はないのに!!
 もしもこれが真実であったとしたら、わたくしにはゲラサ人のかれをとてもよく理解できる。わたくしの場合は、身に覚えなき社内恋愛劇に巻きこまれたヨーゼフ・K(仮名)の身の上話だったが。
 さよう、身に覚えなき社内恋愛!!! 相手とその<親友>によって捏造された事実。相手と上司によって巧みに練りあげられたストーリーと、その意を汲んだ者らが拵えた状況証拠。大分女が蜘蛛の巣の中心となって上演された、ヨーゼフ・K(仮名)が被告人役を務める裁判劇と、その後の解雇劇。証言は、相手の置き土産たる根拠皆無の誹謗中傷。冤罪は斯くして生まれるのである。
 このわずか半日足らずの囲いこみ、尋問は実に凄まじかった。そうして、3月の或る日、ヨーゼフ・K(仮名)はガラス張りの会議室に呼び出され、事実確認も事情聴取もされないまま即時退職を勧告された。そうしてろくな説明もないまま、無理矢理に退職届の筆を執らされ、拇印を捺させられ、ご丁寧にビルのセキュリティゲートまで上司2名に付き添われ(それが監視だったのはいうまでもない!)、年度末の日中に放り出されたのだった……。一言添えればこの会社、その年の源泉徴収票の発行を拒否してきた由。
 なお、相手はヨーゼフ・K(仮名)の解雇が実行されるまでの約2週間、一時避難が真実な退職をして雲隠れしておった。実家の親が脳梗塞で倒れたなんていう偽りを名目に、。
 精神的に袋小路へ追いつめられて、急き立てられるかのような焦燥感──まさにその数時間のヨーゼフ・K(仮名)が経験したのと同じことだ。わたくしが思うにヨーゼフ・K(仮名)もゲラサ人のかれと同じなのだろう。まあ、貴重な経験ではあったが、当時は失望させられたね。
 閑話休題(そんなどうでもいいことはさておき)。
 ──本日からこれまではしたことがない、ちょっとしたズルをしよう。並行箇所については今後、積極的に先行する「マタイ」、「マルコ」の該当部分のノートを一部修正、改筆の上転用したい。以前からずっと考えていたのだけれど、このたび諸々の事情を鑑みて斯く処置させていただく。ご寛恕願う次第。

 本日の旧約聖書はルカ8:10とイザ6:9-10。



 ヨーゼフ・K(仮名)なんてしてみたら、途端にカフカが読みたくなった。
 この時節に昼間の公園で読み耽った『変身』。風呂場で読んだ『田舎医者』。理由なく中央線に飛び乗り井の頭公園のベンチでページをめくった『流刑地にて』。いずれも忘れられぬ読書体験だ。白水uブックスの<カフカ・コレクション>にて。
 未読のカフカは『失踪者』と『城』。偶然にも長編が残った。が、勘違いされないでほしいのは、まったくの未読ではないということ。学生時代にはこの2作、文庫で読んでいるのだ。が、ドイツ文学のリポートだったせいか、残念なことに読後感や印象など一欠片も残っていない。
 カフカを読むに適した季節は、春。自分のなかのそんなイメージが、この時期、未読のカフカ作品を思い出させ、手を伸ばさせる。いまのド氏が終わったら、一旦カフカかなぁ、なんて2度目の中断を実現させかねない企みを、刹那抱いたことをお伝えしておこう。◆

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