第1943日目 〈ルカによる福音書第3章:〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉、〈イエス、洗礼を受ける〉&〈イエスの系図〉with今年も、LFJAJの季節になった。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第3章です。

 ルカ3:1-20〈洗礼者ヨハネ、教えを宣べる〉
 ローマ帝国第2代皇帝ティベリウスの御代第15年。この年のユダヤ総督はポンティオ・ピラト。ガリラヤ地方の領主はヘロデ・アンティバス、大祭司はアンナスとカイアファであった。
 その頃、神の言葉が荒れ野のヨハネに降り、ヨルダン川地方一帯で罪の赦しを得るための悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めた。預言者イザヤの言葉の実現である。
 ヨハネは洗礼を受けようとやって来る人々に向かって悔い改めに相応しい実を結ぶよう説いた。良い実を結ばぬ木は例外なく切り倒されて、火にくべられるからだ。
 ではわたしたちはどうすればよいか、と人々が訊いた。ヨハネの曰く、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。」(ルカ3:11)
 徴税人も同じように訊いた。ヨハネの曰く、「規定以上のものは取り立てるな。」(ルカ3:13)
 兵士も同じように訊いた。ヨハネの曰く、「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」(ルカ3:14)
 そうしてヨハネは、メシアの訪れを待ち望んで秘かにかれこそメシアではないか、と期待する人々に向けて、いった、──
 「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履き物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)云々と。
 その他にも、人々へ様々な勧めをし、福音を告げて知らせたヨハネであったが、或る日ヘロデ・アンティバスの手の者によって拉致され、投獄された。かねてからヨハネがヘロデの結婚とその新妻ヘロディアについて非難、糾弾していたからだ。このようにして、ヘロデは自らの悪事の経歴にまた1つ、新たな悪事を自身で付け加えたのである。

 ルカ3:21-22〈イエス、洗礼を受ける〉
 (ヨハネによって)洗礼を受けたイエスが祈っていると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える形でかれの上に降ってきた。天から、あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、との声が聞こえた。

 ルカ3:23-38〈イエスの系図〉
 30歳から宣教を始めたイエスの父はナザレの大工ヨセフと伝えられる。
 その家系をさかのぼればゼルバベル、ナタン、ダビデ、ボアズ。ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム。セム、ノア、エノク、セト、アダム。そうして創造主である神に至る。

 ティベリウス帝の御代第15年とは後29年乃至は28年となり、帝位に在ったのは14-37年。その本名はティベリウス・ユリウス・カエサルといった。「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」というイエスの言葉に出る皇帝とはこのティベリウスである。
 第5代ユダヤ総督ポンティオ・ピラトの在位は26-36年。ヘロデ・アンティバスがガリラヤ/ペレヤ地方領主であったのは4-39年。アンナスが大祭司であったのは6-15年、娘婿カイアファがその地位に在ったのは18-36年であった。第3章当時、アンナスは既に大祭司の地位を罷免されていたが、未だ同様の権威を持っていたとされる。
 ……歴史的記述が要所に散りばめられた「ルカによる福音書」がイエス伝の構築のみならず、当時のシリア・パレスティナ地方、延いてはオリエント地方史を繙く際に典拠となる理由が、こうした読書を通じてわかってゆくことである。
 さて。
 かつてわたくしが、「マタイ」第1章にてやはりイエスの系図について愚痴ったことを覚えていらっしゃるだろうか。「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」(マタ1:17)……計算が合わない、という愚痴である。
 これは「マタイ」に留まらず、同じ系図を(今度は逆向きに)掲げる「ルカ」についても事情は変わらない。否、もはや人名さえ異なっている時点で(ヨセフの父)わたくしなどは頭を抱えてしまう。イエスを出発点として過去へ遡上してゆく系譜の辿り方には「ルカによる福音書」著者の独自性と才覚、そうしてなかば意地さえ窺える。が、家系図が孕む人数の齟齬という厄介事はまったく以て解消されたとは言い難い。正直なところを告白すれば、同じ系図の記述であっても代上1-9の方がよほど親しみやすいのではないか。
 系図に関して「マタイ」と「ルカ」は典拠とした史料が異なっているのかもしれない。それが単一の史料を基に記述したものであれ、複数の史料を組み合わせて綴られたものであれ、まったく同じ史料のみを典拠としたとは考えられない。人名の齟齬にしても経る歳月のどこかの段階で正しい名前が曖昧になってしまうことだって、ある。原因は幾らも推測できようが、それにしても系図とは古今東西、読み手を混乱させる厄介な代物であることに異論を呈する者、有りや無しや。
 一度、「マタイ」と「ルカ」それぞれの系図に記載される人名を代毎に列挙する必要がある。

 本日の旧約聖書はルカ3:4-6とイザ40:3-5。



 もういつの間にやら世間はGWに突入し、有楽町では今年も<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>が始まっているのですね。
 今年のテーマは「PASSION」。なんだ、そりゃ? なタイトルである。察するところ、集客できるだけの作曲家は出尽くしたようだ。辛うじて集客が可能なテーマも種が尽きたらしい。為に、よりキャパシティの広いテーマを掲げることで縛りなき作曲家と分野の選択を可能とする方向へ転換したのだろうか。
 まぁ、それはともかく通常よりは低価格で高水準の演奏を楽しめる、敷居の低いクラシック音楽祭と位置付けられた<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>は今年も盛況なようである。個人のブログやSNSを見ていると、参加者の種々の声が聞こえてくる(が、そのなかにスタッフについて触れたものは1つもない)。
 今年の前半はひたすら怠惰に過ごしたから、初日になってようやく(偶然に)<ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン>のことを思い出したわけだが、もっと早くに気付いていればわたくしはこのイヴェントに1人であっても出掛けていただろうか。──否、とはっきり申しあげられる。LFJAJには、いや、東京国際フォーラムには心をちくりとさせられる甘酸っぱい(呵々)思い出が、未だ生々しく残っている。
 フォーラムに咲いていた可憐な花はいまも色鮮やかに、どこかで咲き誇っているのだろうか。悠久の希望を与えてくれたであろう花、だが触れることも近附くことも気後れさせられた花。ジュルネやホールCやシビックホールの思い出は、どんな道を辿っても必ずこの花の思い出に辿り着く。後半生最大級の呪縛。◆

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