第1944日目 〈ルカによる福音書第4章:〈誘惑を受ける〉、〈ナザレで受け入れられない〉他with僕の居場所はどこかにあるの?〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第4章です。

 ルカ4:1-13〈誘惑を受ける〉
 洗礼を受けて川からあがったイエスは聖霊に満たされた体で荒れ野をまわり、40日間にわたって悪魔から誘惑を受けた。
 悪魔が空腹のイエスを唆す。が、イエスはこれを退けた。人はパンだけで生きるのではない、と聖書に書いてある。
 悪魔がイエスを空高く上げて全地の国という国を見せ、俺を崇めればば地上のすべての国を支配させよう、と試す。が、イエスはこれを退けた。神である主を飲み崇め、これにのみ仕えよ、と聖書に書いてある。
 悪魔がイエスを神殿の端に立たせ、神の子ならここから飛び降りても無事だろう、と挑発する。が、イエスはこれを退けた。あなたの神である主を試してはならない、と聖書に書いてある。
 ──悪魔は誘惑の種が尽きるとイエスから離れた。

 ルカ4:14-15〈ガリラヤで伝道を始める〉
 霊の力に満ちたイエスはガリラヤ地方に帰って、諸所の会堂で教えを垂れ、皆の尊敬を集めた。

 ルカ14:16-30〈ナザレで受け入れられない〉
 その後イエスはナザレに帰り、安息日に会堂で聖書の朗読を行った。そのときかれが手にしたのは預言者イザヤの名で伝わる巻物だった。それに曰く、──
 「主の霊がわたしの上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。/主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19,イザ61-12)
──朗読を終えたイエスは続けて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)といった。
 ……ナザレの会堂に集まっていた人々は、その恵み深き言葉に驚嘆し、あの男は大工ナザレの子ではなかったのか、と囁き合った。
 そうしてイエスは会堂の人々に向かって、いった。わたしがカファルナウムで行った奇跡や治癒の業を知るあなたがたは、郷里でも同じようにしてくれるだろう、と期待している。皆さんにはっきりいっておこう、預言者が故郷で受け入れられることはない、と。かつて北王国イスラエルに現れたエリヤとエリシャもそうだった。
 このイエスの言葉を聞いたナザレの人々は憤慨し、かれを村の外まで追い立て、再びの出入りを禁止した。

 ルカ4:31-37〈汚れた霊に取りつかれた男をいやす〉
 イエスはガリラヤ湖北端の町カファルナウムに入り、安息日に人々へ教えを宣べ伝えた。「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」(ルカ4:32)
 会堂に、悪霊に取り憑かれた男が来ていた。悪霊が、神の子イエスよ、われらを滅ぼしに来たのか、お前の正体はわかっている、神の聖者だ、と叫んだ。
 男に向かってイエスが一喝すると、その悪霊は出て行った。会堂にいてこの様子を見ていた人々は、このイエスという男はいったい何者か、権威と力を以て汚れた霊を人から追い払うとは、と再び驚嘆したのだった。

 ルカ4:38-41〈多くの病人をいやす〉
 会堂を去ったイエスは、高熱に苦しむシモンの姑を癒やし、他の病に苦しみ悩む人々を治し、人に取り憑いた悪霊どもを追い払った。

 ルカ4:42-44〈巡回して宣教する〉
 朝になるとイエスは人里離れた場所へ行き、カファルナウムに留まってくれるよう頼みこむ人々にこういった。曰く、──
 「ほかの町にも神の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(ルカ4:43)
 そうしてかれはユダヤ各地の会堂で教えるようになった。

 本章を読んで気附かされる「マタイ」、「マルコ」といちばん趣を異にするのは、やはりナザレでの挿話だろう。細部が書きこまれてより内容が豊かになったのは勿論だが、イエスが故郷の人々から拒絶されるに至った原因もここには記されている。即ち、自分が他の地で行ったことをここでも行うなんて期待するな、ということ。
 おそらく村人たちにそれを望む気持ちはあったろう。が、先制攻撃を喰らい、釘を刺されて(!)しまった。これではたしかに村人たちが気分を害して、かつ裏切られたような気持ちになったとしても、仕方ない。かれらの心情は十分に理解できる。
 が、イエスは人情に流されてはならぬ立場だ。それとこれとは話は別である。かれは信念を貫かねばならぬのだ。人間関係のしがらみ、地縁が強いる要求などから一切自由でなくては教えを宣べ伝えることはできない。──そう判断したがゆえのイエスの言動であったかもしれない。
 もっとも、それが旧約聖書で語られたエリヤとエリシャの挿話をわが身の上に実現させる意図があって、それがむしろ専らな動機だったかもしれないけれど。
 ──エリヤとエリシャの復習は必要だろうか。いずれも北王国イスラエルに現れた預言者であることは本文に落としこみ済み。旧約聖書に先に登場したのは当然エリヤだが、それ以外の情報を記すとすれば、2人とも前9世紀に相次いで現れ、エリヤは時の王アハブと王妃イゼベルを非難してアハブ王朝の滅亡を預言、王の追跡を受けてホレブ山に逃れて神の顕現を目撃した。またエリシャはオムリ王朝の終焉を預言してそれの実現を見届け、またイエス同様弱き個人の側に立って癒やしの業を行った。かれらには師弟関係ともいうべき結びつきがあり、エリシャはエリヤが天に上げられる場面の目撃者となった。
 エリヤとエリシャの事績は「列王記」上下に記されている。ルカ4でイエスがいうかれらの挿話は、エリヤが干ばつに苦しむイスラエルではなく異邦人であるシドン地方サブレタの町のやもめを癒やし、エリシャはシリアの敵将ナアマンを癒やしたというそれぞれの挿話に由来する。本章該当箇所と典拠となる箇所を以下に挙げれば、エリヤ;ルカ4:25-26と王上17-18、エリシャ;ルカ4:27と王下5:1-14である。
 読者諸兄には可能であれば、実際に旧約聖書を繙いて歴史書と呼ばれる「列王記」を、この2人の預言者が登場する箇所だけでもお読みいただきたく願うておる。
 ……ところで、母マリアはこのときナザレにいたのだろうか。もしいたなら、イエス追放後に村人たちから何や彼やといわれたりしなかったであろうか。もしいわれたなら、そのときのマリアはなんと答え、その実心の内ではなにを思うたのだろう。千反田えるではないが、わたし気になります、なのだ。

 本日の旧約聖書はルカ4:4と申8:3、ルカ4:8と申6:13、ルカ4:10-11と詩91:11-12、ルカ4:12と申6:16、ルカ4:18-19とイザ61:1-2、ルカ4:25-26と王上17-18、ルカ4:27と王下5:1-14。



 信じていた者に裏切られた気がします。<エデン>がいまや<ソドム>と化したことはかつて述べたけれど、まさかわずかに残っていた<エデンの民>が陰で裏切りを画策し、連帯を組み、徐々に表面化させてくるとは。紅旗征絨は吾が事に非ずというて唯我孤高を演じるにも心身の限界というのがある。ここはいったいどこなのだろう?◆(65)

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