第1945日目 〈ルカによる福音書第5章:〈漁師を弟子にする〉、〈レビを弟子にする〉他withちかごろの悩みの1つは、エッセイが書けないということです。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第5章です。

 ルカ5:1-11〈漁師を弟子にする〉
 ガリラヤ湖(ゲネサレト湖)の畔に立つイエス。かれのまわりに、神の言葉を聞こうと人が集まってきた。そのときイエスは2艘の舟を見附けた。持ち主である漁師たちは湖で網を洗っているところだった。イエスはそのうちの1艘、シモンの舟に乗って岸にいる人々相手に説教した。
 それが終わるとイエスはシモンに、網を打って魚を捕りなさい、といった。シモンたちは朝から量をしていたのに魚が捕れなかったので、イエスの言葉を訝しみながらも網を打った。すると、おびただしい量の魚が掛かり、網はいまにも破れんばかりとなったのである。シモンはもう1艘の舟を持つ仲間に声を掛けて手を借り、どうにか魚を揚げて2艘の舟をいっぱいにしたのだった。
 シモン・ペトロがイエスの足許に跪いて、いった。主よ、わたしから離れてください、わたしは罪深き者なのです。これに答えてイエスの曰く、恐れるな、シモンよあなたはいまから人を漁る漁師となる、と。
 シモン・ペトロと弟アンデレ、仲間のヤコブとヨハネ兄弟はその場にすべてを抛ち、イエスに従った。

 ルカ5:12-16〈重い皮膚病を患っている人をいやす〉
 或る町にイエスがいたときである。かれは全身重い皮膚病にかかった人と行き会った。その人はイエスを見ると、御心ならばわたしを清くしてください、と願った。イエスは諾って曰く、清くなれ、と。すると、その人の病はたちまち癒やされたのである。
 イエスはその人に、このことを誰かに話してはならない、ときつく言い置いた。ただ祭司のところに行って病癒えた体を見せ、モーセの規定に従って清めの献げ物をささげなさい。
 が、イエスのふしぎな業のことは噂になって広まっていたので、たくさんの人がイエスの言葉/教えや癒やしを求めて、あちこちから集まってきた。「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」(ルカ5:16)

 ルカ5:17-26〈中風の人をいやす〉
 イエスが教えている群衆のなかに、ファリサイ派の者と律法学者が混じっていた。かれらはガリラヤとユダヤのすべての町、またエルサレムから来たのである。ちょうどそのとき、イエスは主の力が働いて、病人を癒やしていたところだった。
 外から男たちが、重い中風の人を床に乗せて運んできた。が、人が多すぎてイエスのそばに行くことができない。そこでかれらはイエスのいる家の屋根を剥がし、そこから病人を床ごと吊り降ろしたのだった。イエスはかれらの信仰に感じ入り、床に寝こんでいる人へ優しくいった。あなたの罪は赦された。
 これを聞いたのが、件のファリサイ派と律法学者である。神を冒瀆するあの男は何者だ、神以外の誰が人の罪を赦すことができるのか──かれらは心のなかでそう考えた。霊の力が働いてイエスはかれらの考えを知り、そうしていった。あなたの罪は赦された、というのと、起きて歩け、というのと、どちらが易しいと思うのか。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(ルカ5:24)
 そうして中風の人にいった。起きて床を担いで家に帰りなさい。するとその人は皆の前で起きあがり、寝台を担ぎ、神を讃美して帰宅した。これを見ていた人々は驚き、また、「恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った。」(ルカ5:26)

 ルカ5:27-32〈レビを弟子にする〉
 収税所に坐るレビという徴税人を弟子にしたイエス。レビの主催でかれの家を会場としたイエスのための宴会が催された。その場には徴税人ばかりでなく、賤なる職の者らが多く集まった。
 ファリサイ派や律法学者たちはその光景をふしぎに思い、手近にいたイエスの弟子に、どうしてあなた方の先生はあのような者と一緒に食事をするのか、と問うた。これを聞いたイエスは、かれらにいった。曰く、──
 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)

 ルカ5:33-39〈断食についての問答〉
 或る人々がイエスに、ファリサイ派やヨハネの弟子たちはこの時期断食しているのにどうしてあなた方はそれをしないのですか、と訊いた。これにイエスが答えて曰く、──
 花婿のいる所で断食をする者が果たしてあるだろうか。しかしやがて花婿が奪われる時が来る。それが断食の時だ。
 また、このような喩えをして曰く、──
 新しい服から取った継ぎを古い服に当てるな。新しい服はそこから破け、古い服も継ぎを当てた場所から痛んですぐに破けてしまう。新しいぶどう酒を古い革袋に入れるのも同じことだ。古い革袋の弱くなった所から新しいぶどう酒は零れ出る。当然、革袋も駄目になる。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』というのである。」(ルカ5:38-39)

 「ルカによる福音書」を読み始めてまだ5日。1週間にも満たない日数で既にわれらは「ルカ」が先行する「マタイ」とも「マルコ」とも異なって描写の具体的なることを知っている。本章に於いてはシモンたちの弟子入りが相当しよう。
 先の2つの福音書では、シモンたちは別々の機会ではあるけれど、行き会ったばかりのイエスにすぐさま従って12弟子の先鋒となったが、「ルカ」ではまず岸辺の人たちに向けた説教への協力があり、そうして大漁をもたらされたことでイエスを信じる素地が出来、かれの言葉に従ってその後は行動を共にし、時に各地へ派遣されて師の教えを宣べ伝え、奇跡を行うようになった。シモンの場合はその前(ルカ4:38-39)に姑の病をイエスが癒やす現場を目撃していよう。アンデレも居合わせたかもしれない。やや唐突かつ不自然に映ったシモンたち4人の弟子入りが、「ルカ」では自然な流れを作って語られている。こんな細かな点にも「ルカによる福音書」著者の巧みさを感じさせることである。
 「マタイ」で最初に読んだときはそのまま読み流した感のある言葉が、本章にもある──「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31-32)──これもまた時を経て読むとつくづく良い言葉だ。深く、深く首肯する。新約聖書は名言の宝庫であるけれど、これなども古代から読み継がれて大事にされてきた言葉だ。
 信徒でなくても良い言葉は良い。信じたい言葉、教えを繰り返される読書によって、体のなかへ徐々に染みこませてゆく。得も言われぬ歓び! もしかすると、あの子が生きていたら同じようなことをも少し早くに経験していたのかな。



 ちかごろ、思うようにエッセイが書けないのです。以前のようにどんどんと話題のタネが生まれるわけでなく、なにかを書こうとしても一編の作品としてまとまる様子もなく、筆を執ってもなんだか支離滅裂、とてもではないがそれに手を加えて体裁を整えることができない程。われながら世に残すに値せず、と断じてゴミ箱へ放り捨てたくなるぐらいに恥ずかしい出来映えの代物が、ちかごろ多くなってきているのであります。
 たくさん読んでたくさん書く。小説の書き方、上達についてS.キングはそういう。が、どうやらそれは小説に限っての話で、エッセイはそれだけでは事足りないらしい。むろん、小説だって読んで書くだけでは到底書くことも上達することもできぬわけだけれど、同じ文章を書くという作業であってもエッセイはそれと次元の異なる分野らしく、「たくさん読んでたくさん書く」のと殆ど同じ比率で、なにを見てどう捉えるか、どのように料理するのか、が小説以上に鋭く問われるものであるらしい。
 日本でエッセイは随筆、欧米では(小)論文である。前者に傾けば<感性を磨け>となり、後者に比重を置けば<構成をしっかりさせよ>となろう。即ち、なにを見てどう捉えるか、どのように料理するのか、に帰結する話だ。
 自分のなかでエッセイ執筆の意欲が衰えたのは、どうしてなのだろう。どれだけ考えてみても、理由や原因がまるでわからない。自分の身辺でいろいろ事態が巻き起こっているのは事実だが、それだけが要因とはどうしても思えない。七転八倒した挙げ句、どうにか一編を物すことができたなら、それまでの労苦も報われようが、書きあげられなかったときは<悲惨>の一言以外になんの言葉もない。これが一時的な衰退であれば良いのだけれど……。
 ああ、やっぱりエッセイはいったんタネが尽きて執筆意欲が減退すると、再び以前のようなモチベーションを回復させるのは難しいな、とぼやきつつ、さて、それでは明日の話題を探しに行くか。◆

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