第1952日目 〈ルカによる福音書第11章:〈祈るときには〉、〈ベルゼブル論争〉他with七月隆文『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』を読みました。〉 [ルカによる福音書]
ルカによる福音書第11章です。
ルカ11:1-13〈祈るときには〉
イエスは弟子たちの求めに応じて、かれらへ祈りについて教えた。即ち、──
「父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。/わたしたちの罪を赦してください。/わたしたちも自分の負い目のある人を・皆赦しますから。/わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」(ルカによる福音書11:2-4)
また、弟子たちにこうもいった。曰く──、
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:9-10)
ルカ11:14-23〈ベルゼブル論争〉
或るとき、イエスは悪霊を追い出して、それに取り憑かれていた男を癒やした。その悪霊は口を利けなくする悪霊だったので、癒やされた男は途端に喋り出した。この様子を見た一部の心ない人々がイエスは悪霊の親玉ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ、と中傷した。それに答えてイエスの曰く、──
内輪で争えば、どのような国であっても乱れ荒れ果て、どのような家でも重なり合って倒れてしまうものだ。もしわたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すならば、あなた方はどんな力で以て人からそれを追い出すのか。
わたしが神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなた方のところに来ている。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者はそれゆえに散らしているのだ。
ルカ11:24-26〈汚れた霊が戻ってくる〉
人の体から追い出された汚れた霊は砂漠を彷徨うが、居場所が見附からぬので前の体に戻ろうとする。しかしかつて憑いていた体は既に綺麗に掃除されて整えられていた。そこで件の霊は自分よりも悪い7つの霊を連れて来て、前の体に入る。するとその体の主は以前よりもずっとずっと悪くなる。
ルカ11:27-28〈真の幸い〉
──これを聞いた群衆のなかの或る女が叫んだ。
然り、然り。なんと幸いか、あなたを宿した胎、あなたに吸われた乳房は!
否。イエスは答えた。真に幸いなるは、神の言葉を聞いて守る者なり。
ルカ11:29-32〈人々はしるしを欲しがる〉
イエスは、ますます数の増える群衆を前にして、いった、──
いまの時代のなんと邪か。人々はしるしを欲しがるが、未だ預言者ヨナに与えられたしるしの他にしるしは与えられていない。ヨナがニネベの人々にとってしるしとなったように、人の子がこの時代の人々のしるしになろう。裁きの時が訪れたらば、ニネベの人々はいまの時代の者たちと一緒に立ちあがり、しるしを欲しがる人々を罪に定めよう。というのも、ニネベの人々はヨナの言葉によって悔い改めたからだ。
ルカ11:33-36〈体のともし火は目〉
あなたの体の灯し火は目である。目が澄んでいれば全身が明るく、目が濁っていれば体は暗い。だから、あなたのなかの光が消えたりしていないか調べなさい。
ルカ11:37-54〈ファリサイ派の人々と律法の専門家を非難する〉
このような話をしたあと、イエスはファリサイ派の人の招待を受けて、その人の家に行って食事の席に着いた。イエスが食事の前に身を清めなかったのを見て、ファリサイ派の人々は不審に思った。
それを察して、イエスの曰く、──
ファリサイ派に人々よ、あなた方は不幸だ。食器の外側は綺麗にするのに、自分の内側は憎悪と強欲に満ちている。
あなた方ファリサイ派の人々は不幸だ。献げ物を規定通りにささげていても、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからである。これこそがあなた方が行うべきことなのに。
あなた方は人目につかぬ墓のようなものだ。誰かがその上を歩いたとしても、そこが墓とは知らぬことだろう。
──食事に同席していた1人の律法学者がイエスに、そんなことを仰ればわれらをも侮辱することになりませんか、といった。
イエスはその律法学者に向かって、いった、──
「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」(ルカ11:47-51)
──イエスのこれらの言葉を聞いたファリサイ派の人々と律法学者達は憤った。激しい敵意をイエスに対して抱いたかれらは「いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、なにか言葉じりをとらえようとねらっていた。」(ルカ11:53-54)
ヘブライ語による旧約聖書は「創世記」から「歴代誌」までを指す、とフランシスコ会訳聖書の註にいう。
ルカ11:51「アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ」はそれを踏まえての表現であるらしく、カインの弟アベルは「創世記」に於いて最初の殉教者であり、ヨアシュ王の命令によって石で打ち殺された祭司ゼカルヤは「歴代誌」下で最後に名の出る殉教者であった。神のため犠牲になった2人の名を挙げて旧約聖書全体を統括している、と捉えてよいのだろう。ゆえに、──
──本日の旧約聖書はルカ11:51と創4:8,代下24:20-23。
七月隆文『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(宝島社文庫)を昨日05月05日午前に読了しました。
タイムトラベルを扱った変種の純愛小説といえばいいのか、SF小説を読み慣れた人には目新しくない題材だし、正直、正攻法でこの種の小説を書くには難しい時代だと思う。<この設定なくしてこの物語は成り立たない>という説得力を読者に与えるだけの力がないと、四方八方から非難と瑕疵を指摘する声が止まぬのではないか。
ネタバレになるので未読の方は覚悟していただきたい乃至は注意していただきたいが、時間の流れがこちらとは逆な隣り合った世界からの来訪者である愛美とこちら側の世界で美大に通う主人公高寿のわずか40日間の恋を描いた作品として、確かに本書は涙を誘うものである。一気読みしていたら、まるで韓流ドラマのような直球勝負ッぷりで恥ずかしくなりつつも涙腺を抑えがたく気附けば滂沱となりかねぬが、冷静に作品設定や展開を分析してゆけば、小首を傾げる点も累出しよう。
だがしかし、純愛小説とはどこまで読者の胸を熱くし、紅涙を絞らせられるかが求められる類の小説である。そのためには或る程度までなりふり構わぬ描写や展開も必要であろう。それに『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』は真正面から挑み、読み終えた物の心へ切なさと暖かさを残した。
高寿と愛美の激アマな描写が絨毯爆撃的に繰り返され、読者の心を蕩けさせてきたからこそ、愛美の正体と高寿の前に現れた理由が明らかとなり、確実に終わりを告げる恋を全うしようとする2人の姿に、われらは紅涙を絞らされるのだ。ああ、この小説を読めて良かったなぁ。
昨今の流れから推察すれば、おそらく本書も実写化される可能性がある。それは構わぬが、代わりにキャスティングにはじゅうぶんに配慮していただきたいと望む。◆
ルカ11:1-13〈祈るときには〉
イエスは弟子たちの求めに応じて、かれらへ祈りについて教えた。即ち、──
「父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。/わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。/わたしたちの罪を赦してください。/わたしたちも自分の負い目のある人を・皆赦しますから。/わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」(ルカによる福音書11:2-4)
また、弟子たちにこうもいった。曰く──、
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:9-10)
ルカ11:14-23〈ベルゼブル論争〉
或るとき、イエスは悪霊を追い出して、それに取り憑かれていた男を癒やした。その悪霊は口を利けなくする悪霊だったので、癒やされた男は途端に喋り出した。この様子を見た一部の心ない人々がイエスは悪霊の親玉ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ、と中傷した。それに答えてイエスの曰く、──
内輪で争えば、どのような国であっても乱れ荒れ果て、どのような家でも重なり合って倒れてしまうものだ。もしわたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すならば、あなた方はどんな力で以て人からそれを追い出すのか。
わたしが神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなた方のところに来ている。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者はそれゆえに散らしているのだ。
ルカ11:24-26〈汚れた霊が戻ってくる〉
人の体から追い出された汚れた霊は砂漠を彷徨うが、居場所が見附からぬので前の体に戻ろうとする。しかしかつて憑いていた体は既に綺麗に掃除されて整えられていた。そこで件の霊は自分よりも悪い7つの霊を連れて来て、前の体に入る。するとその体の主は以前よりもずっとずっと悪くなる。
ルカ11:27-28〈真の幸い〉
──これを聞いた群衆のなかの或る女が叫んだ。
然り、然り。なんと幸いか、あなたを宿した胎、あなたに吸われた乳房は!
否。イエスは答えた。真に幸いなるは、神の言葉を聞いて守る者なり。
ルカ11:29-32〈人々はしるしを欲しがる〉
イエスは、ますます数の増える群衆を前にして、いった、──
いまの時代のなんと邪か。人々はしるしを欲しがるが、未だ預言者ヨナに与えられたしるしの他にしるしは与えられていない。ヨナがニネベの人々にとってしるしとなったように、人の子がこの時代の人々のしるしになろう。裁きの時が訪れたらば、ニネベの人々はいまの時代の者たちと一緒に立ちあがり、しるしを欲しがる人々を罪に定めよう。というのも、ニネベの人々はヨナの言葉によって悔い改めたからだ。
ルカ11:33-36〈体のともし火は目〉
あなたの体の灯し火は目である。目が澄んでいれば全身が明るく、目が濁っていれば体は暗い。だから、あなたのなかの光が消えたりしていないか調べなさい。
ルカ11:37-54〈ファリサイ派の人々と律法の専門家を非難する〉
このような話をしたあと、イエスはファリサイ派の人の招待を受けて、その人の家に行って食事の席に着いた。イエスが食事の前に身を清めなかったのを見て、ファリサイ派の人々は不審に思った。
それを察して、イエスの曰く、──
ファリサイ派に人々よ、あなた方は不幸だ。食器の外側は綺麗にするのに、自分の内側は憎悪と強欲に満ちている。
あなた方ファリサイ派の人々は不幸だ。献げ物を規定通りにささげていても、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからである。これこそがあなた方が行うべきことなのに。
あなた方は人目につかぬ墓のようなものだ。誰かがその上を歩いたとしても、そこが墓とは知らぬことだろう。
──食事に同席していた1人の律法学者がイエスに、そんなことを仰ればわれらをも侮辱することになりませんか、といった。
イエスはその律法学者に向かって、いった、──
「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」(ルカ11:47-51)
──イエスのこれらの言葉を聞いたファリサイ派の人々と律法学者達は憤った。激しい敵意をイエスに対して抱いたかれらは「いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、なにか言葉じりをとらえようとねらっていた。」(ルカ11:53-54)
ヘブライ語による旧約聖書は「創世記」から「歴代誌」までを指す、とフランシスコ会訳聖書の註にいう。
ルカ11:51「アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ」はそれを踏まえての表現であるらしく、カインの弟アベルは「創世記」に於いて最初の殉教者であり、ヨアシュ王の命令によって石で打ち殺された祭司ゼカルヤは「歴代誌」下で最後に名の出る殉教者であった。神のため犠牲になった2人の名を挙げて旧約聖書全体を統括している、と捉えてよいのだろう。ゆえに、──
──本日の旧約聖書はルカ11:51と創4:8,代下24:20-23。
七月隆文『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(宝島社文庫)を昨日05月05日午前に読了しました。
タイムトラベルを扱った変種の純愛小説といえばいいのか、SF小説を読み慣れた人には目新しくない題材だし、正直、正攻法でこの種の小説を書くには難しい時代だと思う。<この設定なくしてこの物語は成り立たない>という説得力を読者に与えるだけの力がないと、四方八方から非難と瑕疵を指摘する声が止まぬのではないか。
ネタバレになるので未読の方は覚悟していただきたい乃至は注意していただきたいが、時間の流れがこちらとは逆な隣り合った世界からの来訪者である愛美とこちら側の世界で美大に通う主人公高寿のわずか40日間の恋を描いた作品として、確かに本書は涙を誘うものである。一気読みしていたら、まるで韓流ドラマのような直球勝負ッぷりで恥ずかしくなりつつも涙腺を抑えがたく気附けば滂沱となりかねぬが、冷静に作品設定や展開を分析してゆけば、小首を傾げる点も累出しよう。
だがしかし、純愛小説とはどこまで読者の胸を熱くし、紅涙を絞らせられるかが求められる類の小説である。そのためには或る程度までなりふり構わぬ描写や展開も必要であろう。それに『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』は真正面から挑み、読み終えた物の心へ切なさと暖かさを残した。
高寿と愛美の激アマな描写が絨毯爆撃的に繰り返され、読者の心を蕩けさせてきたからこそ、愛美の正体と高寿の前に現れた理由が明らかとなり、確実に終わりを告げる恋を全うしようとする2人の姿に、われらは紅涙を絞らされるのだ。ああ、この小説を読めて良かったなぁ。
昨今の流れから推察すれば、おそらく本書も実写化される可能性がある。それは構わぬが、代わりにキャスティングにはじゅうぶんに配慮していただきたいと望む。◆