第1953日目 〈ルカによる福音書第12章:〈思い悩むな〉、〈目を覚ましている者〉他withドストエフスキーは推敲したか。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第12章です。

 ルカ12:1-3〈偽善に気をつけさせる〉
 群衆の数はますます多くなる。イエスの説教、継続中……。
 弟子たちよ、とイエスはいった。ファリサイ派の人々のパン種に気を付けよ。それは偽善だ。秘めたつもりでもいつかは露わとなる。暗がりで囁いたことは明るみで聞かれる。密談は世間の知るところとなる。

 ルカ12:4-7〈恐るべき者〉
 人を殺めたが最後、それ以上はなにもできぬ者を恐れるな。あなた方が真に恐れるべきは、殺したあとで地獄へ投げこむ権利と権威を持つ方だ。あなた方はこの方をこそ恐れよ。

 ルカ12:8-12〈イエスの仲間であると言い表す〉
 誰でも人前でわたしを自分の仲間であるという者をわたしもな自分のなかまであるといおう。逆もまた然り。
 「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。」(ルカ12:10)
 会堂や役人、権力者の前に連れて行かれるとき、相手の前でなにをいおうか、と算段してはならぬ。そのときには聖霊がなにをいうべきかを教えてくれるからだ。

 ルカ12:13-21〈「愚かな金持ち」のたとえ〉
 遺産分配の調停を求めた者がいた。イエスはかれにいった。どのような貪欲にも注意を払って用心せよ。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)
 自分のために富を積んでも神の前に豊かにはならぬ、と知れ。

 ルカ12:22-34〈思い悩むな〉
 命のことでなにを食べるか、体のことでなにを着るか、そうしたことで思い煩い、悩むな。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(ルカ12:25)
 栄華を極めたソロモン王でさえ、野に咲く花程着飾ってはいなかった。今日は野にあっても明日になれば炉に投げこまれる草でさえ、神はこのように装ってくださった。況んやあなたがたをや。
 あなた方の父は、あなた方に必要なものを知っている。あなた方はただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものはあなた方に与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を与えてくれる。
 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。(中略)あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:33-34)

 ルカ12:35-48〈目を覚ましている者〉
 衣服を調え、灯し火を点して主人の帰りを待つようにしなさい。その時、目を覚まして主人を迎える者は幸いである。主人は食事のとき、かれの給仕役を務めることだろう。
 「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:40)
 ペトロがイエスに訊ねた。主よ、この話をするのは、われらのためですか、それとも皆のためですか。
 イエスはいった。主人が召使いたちの上に立てる、忠実で、賢い管理人とは果たして誰か。主人が帰宅したとき、命令に従って働く姿を見られるかれは幸いである。が、主人に隠れて他の召使いたちに乱暴したり、主人の不在をいいことに酒を飲んだくれたりするならば、かれは不幸だ。主人はかれにとって思いがけぬ時に帰宅して、厳しい罰を降して不忠実な者と同じ目に遭わせることだろう。
 「 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。
 すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:47-48)

 ルカ12:49-53〈分裂をもたらす〉
 わたしは地上に平和をもたらしに来たのではない。そうだ、寧ろ分裂させるために来たのである。
 「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(ルカ12:50)

 ルカ12:54-56〈時を見分ける〉
 「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(ルカ12:56)

 ルカ12:57-59〈訴える人と仲直りする〉
 なにが正しくて、なにが正しくないか。あなた方はそれを自分で判断せよ。
 あなたを訴えようとしている人とは、能う限りの力と心を尽くしてその者と和解せよ。さもなくばあなた方は牢に投げこまれ、最後の1レプトンを支払うまで釈放されぬだろう。

 イエスはエルサレムへの途上、3度に渡って自分の死と復活を予告する。その言葉は厳粛な響きを伴って、既に決定された未来を語った。が、本章で読むルカ12:35-48〈目を覚ましている者〉、ルカ12:49-53〈分裂をもたらす〉でもイエスは自分の復活を弟子たちにそれとなく伝えた。12弟子たちにとってはまださっぱり意味するところはわからないかもしれない。主人が召使いたちの上に立てる忠実で賢い管理人とは、即ちペトロである。ゆえ、専らシモン・ペトロに向けて語ったと考えてよいこの言葉は、自分の復活に備えて正しく行動し、ちゃんと目を開いて復活した自分を見るように、という促しだ。
 だが実際は、……ペトロはすぐにはイエスの復活を信じなかったし、また福音書の記事を読んでゆく限りでは必ずしも賢い弟子とはいえなかった様子である。しかしながらペトロはイエスの復活を目の当たりにして以後は弟弟子たちを統率して使徒による伝道を牽引、そうして一度は去ったローマに戻ってその地で殉教した。自分の生前はいろいろ手のかかる子であったけれど、処刑後は教えを全地に広めてゆく原動力となる人物となるに違いない──イエスはそれを見越してかれをガリラヤ湖畔で召命したのだろうか。

 本日の旧約聖書は、ルカ12:27と王上10:4-7並びに代下9:3-6、ルカ12:53とミカ7:6。



 中断するときはあってもなおドストエフスキー読進中。『虐げられた人びと』であるが、登場人物の、まるで本能の赴くままに、とでもいうのがぴったりな長台詞や、行き当たりばったりな風に見えなくもないかれらの行動を追うにつけ、果たしてド氏は推敲なんて作業にまじめに取り組んだことがあるのかな、と思うのだ。たしか『白痴』を読んでいるときも同じような感想を綴ったことがある。
 アンリ・トロワイヤなのか小林秀雄なのか中村健之介なのか、或いは他の本で読んだのか。よく覚えていないけれど、ドストエフスキーは借金の返済に追われていたので、作品の多くは書きあげた先から書肆へ渡され、推敲する暇は殆どなかった由。もしこれが事実なら、作中のあまりに冗長な部分や一人芝居かと見紛う長々しい台詞があることにも納得だ。となれば、ド氏の長編が放つ圧倒的な力は、初稿とほぼ変わらぬ状態で世に出たゆえの産物か。
 むろん、実際のところをわたくしは正しく知る者ではない。ただド氏が債鬼に悩まさせられ、増殖する勢いの方が早い借入額に苦しめられていたのは、事実のようである。それを出発点に本稿があるわけだが、推敲の過程や自筆原稿と初出誌/初刊本の間にある異同を記したような本はないのだろうか。すべての作品を対象にせずとも構わぬ。たとえば、いわゆる<5大長編>もしくはそのうちの1作でもよい。そのあたりについて精しくリポートしてくれる本はないものか、と思うのだ。既に海外でそうした本は出ていてもまだ邦訳されていないなら、どなたか日本語で読めるようにしてくださらぬものか。引用は新潮文庫と角川文庫(『白夜』)、岩波文庫(『二重人格』;これの新訳こそいちばん待ち焦がれているのだが、どうして光文社古典新訳文庫は新潮文庫に収まる作品群の新訳にばかり手を出すのだろう?)から行うものとして。もしそうした本が出版されるなら、わたくしは喜んでそれを読み耽りたい。
 ド氏がすべての作品に於いて十全な推敲を行っていたのなら……それ以前の原稿はいったいどのようなものであったのだろう。どれだけ猥雑で混沌としたものであったろう。推敲に頭を悩ます物書きの端くれ中の端くれの身なるがため、そんなところに興味が湧く。
 なお、自身の備忘のために書いておけば、現在『虐げられた人びと』は第4部に入っており、残りは約140ページ。旅行が控えているせいもあり、おそらくゴールデン・ウィーク前の読了は難しかろう。6月かなぁ。◆

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