第1957日目 〈ルカによる福音書第16章:〈「不正な管理人」のたとえ〉、〈律法と神の国〉&〈金持ちとラザロ〉withその朝、災いが降りかかったのだ!(2/3)〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第16章です。

 ルカ16:1-13〈「不正な管理人」のたとえ〉
 イエスは弟子たちにいった、──
 或る金持ちの家に財産を管理する者が1人いた。実はこの管理人には不正と横領の噂があって、それは事実だった。或る日、主人からその真偽を問われた管理人は、いよいよ言い逃れができなくなったことを悟り、考え、一計を案じた。管理人は主人に借りのある者を呼んで、1人1人に虚偽の証文を作らせたのだった。結果としてかれは、借りのあった者らの負債を多少なりとも減らしてやったのである。主人は、管理人のこの抜け目ないやり方を褒めた。自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っている、というて。
 そこでわたしはいうておく。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ16:9)と。
 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16:10-13)

 ルカ16:14-18〈律法と神の国〉
 これを聞いてファリサイ派の人々がイエスを侮蔑して笑った。イエスはいった、──
 自分の正しさを他人に誇示するあなた方の心を、神は知っている。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:15)
 律法と預言者は洗礼者ヨハネの時代までである。それ以後の<いま>は神の国の福音が人の子によって語られている。誰もが神の国に入ろうと遮二無二なっているけれど、実は律法の文字の一画がなくなるよりも天地が消え失せる方が易しいのだ。
 妻を離縁した夫も、離縁された女を娶った男も、姦通の罪を犯したことになる。これを知れ。

 ルカ16:19-31〈金持ちとラザロ〉
 貧者と富者がいた。貧者の名はラザロ。贅沢三昧の金持ちの家の門の前に居り、体中にはでき物があって、金持ちの食卓から落ちたものを食べて露命をつないでいる。
 やがてラザロは死に、天使たちの導きによって宴席にいるアブラハムのそばに坐ることを許された。また金持ちも死に、こちらは黄泉で苦しみもがいたのだが、或るとき、アブラハムのそばに坐るラザロを見た。金持ちは宴席のアブラハムに、ラザロをこちらに寄越してください、わたしは陰府の炎のなかで苦しみもがいています、憐れんでください、といった。
 アブラハムは答えた。否。お前は生前、良いものをたくさんもらった。が、ラザロが得たのは悪いものばかりだったのだ。ゆえにラザロはこちらに、お前はそちらにいる。「わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方へ越えて来ることもできない。」(ルカ16:26)
 ならば、と金持ちはいった。わたしには兄弟が5人います、わたしと同じ目に遭わぬよう、死んだ者の誰かをかれらに遣わして悔い改めるよう諭してください。
 アブラハムは答えた。否。かれらにはモーセと預言者がある。その言葉すら聞かぬような者たちが、死から甦った者の言葉にどうして耳を傾けたりするか。

 なんとも理解の難しい挿話だ。不正な管理人の喩えである。「不正にまみれた富で友どちを作れ」とはどのようなことか。虚偽の証文を作らせた管理人を主人とイエスが褒めるのは、どうしたわけか。今日の通念では考えられないことだ。
 この挿話の要は、引用もしたルカ16:10-13にある。不正にまみれた富にでさえ忠実でなければ何人と雖も真に価値あるものの管理は委ねられないし、他人のものに忠実でなければ何人と雖も自分が持っているものは与えられない、というのだ。
 そうした点でこの管理人は、何事にも忠実であった。そうして自分が直面した危難について考え、他人の抱える負債を──意図してか否かは別として──減らしてやった。不正を働いたとはいえ管理人は己の職務を遂行した。こうしたところを認めたから主人もイエスも、本来なら糾弾されて然るべき管理人を褒めたのだろう。
 実に味のある挿話ではないか。

 本日の福音書はルカ16:18とマタ19:9及びマコ10:11-12。



 では、昨日の続き。
 なくしたと思うていた携帯電話が見附かり、交番へ受け取りに行って一息ついたのも束の間、これまで表立って意識するところのなかった右肩の痛みがわたくしを襲うたのである。ほっ、とまずは安堵して気持ちにゆとりが生まれたためかもしれぬ。とにかく右肩に痺れと痛みが走り、痛みが鎮座坐した右腕を、肘より高く上げるのさえ困難で。
 それは既に夕刻。病院は閉まっている。その日はなるべく右肩に負担をかけぬよう気を付け、静かに過ごした──でもパソコンのキーボードを叩くのはちょっと難儀したな。で、月曜日に施した処置は温感クリームの塗布と温湿布を張ること。映画を観るのにごろ寝しても完全な仰向け状態から動くことままならず、ソファへきちんと坐って背筋を伸ばす、というあまり経験のない姿勢での鑑賞と相成った。
 翌る日、会社には一旦午前休とし、以後の判断については改めて連絡する旨伝え、いつの間にやらファサード部分を改装していた総合病院へ赴く。整形外科の窓口で診察券を持って行くよういわれた。廊下は、週の始まりの日の午前中ということもあってか、どの課にも結構な数の待ち人がいる。わたくしは廊下の長椅子に空きを見附けてそこへ坐り、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』を読み、途中促されて問診票を記入して、より一層長く感じられる待ち時間を過ごした……。
 やがて名前が呼ばれて、簡単な診察。昨日よりはずっと自由が利くようになったのに驚きながら、医師の2,3の質問に答え、今度は放射線科に行ってレントゲン写真を撮ってこい、という。素直で有名、上の者には逆らわない、が信条のわたくしはそれに従い、わずかの転た寝をしている間に名前が呼ばれたのに気付かなかった、という記すに値せぬ出来事に出喰わすもレントゲン写真の撮影を済ませて、再びの整形外科へと戻った。
 それにしても、ちかごろは病院の待合で携帯電話を使っている人が、とても少なくなったなぁ。整形外科のまわりは内科と小児科、耳鼻科なのだが、診察を待つ人10数人のうち携帯電話を夢中になって操作しているのは、親の通院に付き添ってきた、わたくしと同年配と思しき、だらしない服装をした男性のみだった。それはちょうど小児科の前の長椅子。病院の誰彼が気附いて諭す前に、幼稚園年長か小学校低学年と見える女の子と、日本姓を持つ外国人男性が意図せずしてほぼ同じタイミングでかれを注意したことを、われら日本の成人は恥ずかしい、と思わねばならぬ。見て見ぬ振り、事勿れ主義なんて通用しないんだ。
 ──という風に長い長い待ち時間を過ごし、転た寝して一刻の夢に遊んだ後、わたくしは再び呼ばれて医師の前に坐り、レントゲン写真を見ながら骨にヒビは入っていないこと、ちょっと全治に時間がかかる(約4週間とのこと)筋違いである、と説明されて……診察は終わった。〆の医師の一言;あたためないでね。なんと!?
 会計で支払ったその日の診察料は、1万数百円である。健康保険証が如何なる理由でか見附からずに斯様な次第となったわけだが、全額自費という現実からは逃れられない。保険証のある幸せ、そのありがたみを実感した瞬間であった。なくしてそのありがたみを知る。必要なときにないよりも、あるのに必要ない方がいい。これは真実だね!
 たまたまそれはわたくしの雇用契約の内容が変更される頃だった。会社の方から保険証が発行されれば差額分は返却されるし、また、通勤途上の出来事ゆえに労災が認められれば書類の提出を以てやはり差額は返却される由。それは病院の隣にある薬局に於いても同じであった。しかし病院側は労災の書類は4営業日以内に、薬局側は今月中にそれが欲しい、という。わたくしがこれまでに労災を受けたのはもう約20年近く前で記憶は定かでないのだが、はて、労災の認定と書類の発行・受け取りはそんなに短期間でされたっけっかな。
 薬局での冷湿布の束の受け取りと支払いを済ませたら、もう午後2時近くだった。結局その日は連絡して会社を休み、次の日出勤した折に上長へ労災の申請を行うこととし。
 病院で過ごした時間について書いていたら、なにやら予想外に長くなってしまった。前述のようにこのあと労災申請に関しての出来事が残っているのだけれど、これはまた明日とし、以てそれを暫定的な最終回としよう。かの出来事、トータルすれば約30分程度、昨日よりも今日よりも分量を短くできるはず。
 では、また明日。to be Continued.◆

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