第1960日目 〈ルカによる福音書第18章1/2:〈「やもめと裁判官」のたとえ〉、〈「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ〉&〈子供を祝福する〉withマーフィー理論を信じるのはちょっとなぁ……。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第18章1/2です。

 ルカ18:1-8〈「やもめと裁判官」のたとえ〉
 なにがなくても気を落とすことなく、祈ることをやめてはならない。イエスはそのことを教えるため、弟子たちにこういった、──
 或る町に神を畏れず人を人と思わぬ裁判官がいた。一方、かれの許へ絶えず来ては、相手を裁いてわたしを守ってほしい、と訴えるやもめがいた。裁判官は始め取り合わなかったがあまりのしつこさに耐えかねて、そろそろ訴えを聞いたやるとするか、と考える。さもないと逆恨みして俺を悪い目に遭わせるかもしれない。
 さて、イエスはいった。この不正な裁判官の言い草をどう思うか。果たして神が呼び求める選ばれた人々の裁きを行わず、かれらを放置しておくなどということがいったいあるだろうか。否、神はすみやかに裁く。
 ではいったい……「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:8)

 ルカ18:9-14〈「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ〉
 自分は正しい人間である、と自惚れて、他人を見下す者へのイエスの言葉。
 ファリサイ派の人々と徴税人が神殿へ上った。ファリサイ派の人は立って、自分の、善いとされる行いの数々を心の裡に並べ立てた。一方、徴税人は遠くに立ち、目を伏せ胸を叩きながら、神よ、罪人であるわたしを憐れんでください、といった。義とされて家に帰ったのは徴税人の方である。
 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:14)

 ルカ18:15-17〈子供を祝福する〉
 イエス来たる。それを聞いた町や村の母親たちが乳飲み子を抱いて集まってきた。弟子たちは母親らを制したが、却ってイエスは弟子たちを制し、母親らに乳飲み子をそばへ連れて来させた。
 「神の国はこのような者たちのものである」(ルカ18:16)と、イエスはいった。子供のようになって受け入れる者でないと、神の国へは入れない。

 いつ如何なる世であっても慎ましく、謙虚に、人を愛し憐れみ敬い、へりくだる者であれ、ということか。そんな人間になれれば良いが、この世界はそうした人物を排斥するよう作られている。智に働けば角が立つのだ。

 本日の旧約聖書はルカ18:20と出20:12及び申5:16-20。いずれも<十戒>の条である。



 マーフィー博士は心に己の夢を描き続ければ、それはかならず実現する、と説く。これ即ち<マーフィー理論>。これはどんな人でも信じていいことだ。わたくしの場合、それはとても些細な事柄だが、考えをポジティヴな方向へ向けていれば、それは自ずと現実になることを仕事中につくづく実感。
 が、どんな夢を心に描いても、むくわれない夢はぜったいにある。実現を望んでもかなわない夢は、かならずある。マーフィー理論とて実現させられない願いはあるのだ。実現できぬ未来……それを夢見ることはなんと甘美で、残酷か。そこでは時間は、永遠に止まったまま。寝覚めるも地獄、眠るも地獄。おれはどこにも行けない。
 残りの人生をなにを縁に生きようか、とちかごろ真剣に考えている。家庭なんて望んでも得られぬし、筆一本で生活するのは愚かな行為だ。判で捺したようないまの生活を続けるのが、実はいちばん幸せかもしれない。あとはただひたぶるに、夢にしか現れてくれぬ人を偲んでおればよいか。
 ──今日は暗くなっちまったが、明日からまたこれまで通り脳天気に、ふにゃけた内容のエッセイを書いてゆくよっ!◆

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