第1962日目 〈ルカによる福音書第19章:〈徴税人ザアカイ〉、〈「ムナ」のたとえ〉他〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第19章です。

 ルカ19:1-10〈徴税人ザアカイ〉
 イエスはエリコの町に入った。そこには徴税人の頭ザアカイがいた。かれはイエスを一目見ようとしたが、群衆に阻まれて叶わなかった。かれは背が低かったのである。が、どうしてもイエスを一目見たかったかれは先回りして、いちじく桑の樹に登って一行が通りかかるのを待った。やがて一行は来た。
 イエスは件のいちじく桑の樹の上にいるザアカイに目を留めて、降りてきなさい、といった。今夜はあなたの家に是非泊まりたい。
 それを聞いたまわりの人々は、あの人は罪深い者の家に宿を取ったぞ、と囁き交わした。
 周囲のざわめきを知ってか知らずか、ザアカイはイエスに、財産の半分を貧しい人に施し、これまで騙し取ったものは皆4倍にして返します、といった。
 イエスはかれにいった。ザアカイの家に今夜救いが訪れた。かれもアブラハムの子だからだ。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)

 ルカ19:11-27〈「ムナ」のたとえ〉
 イエスは更に、エリコの人々はこんな喩え話をした──イエスがエルサレムに近附いたことで、神の国の訪れは間もなくである、と皆が思うていたからである──。
 或る家の立派な人が王の位を授かるために国を離れた。その折、10人の僕に10ムナ、つまり1人につき1ムナを与えて、自分が帰るまでの間にこのお金で商いをして利益を出せ、と言い置いた。
 その人は王になって帰国するや、かの僕たちを呼んで商いの成果を述べさせた。そうして1ムナを元手に10ムナを稼いだ者には10の町の支配権を与え、5ムナを稼いだ者には5つの町を治めさせたのだった。かれらが「ごく小さなことに忠実だったから」(ルカ19:17)である。
 が、なかには商いをして利益を出すどころか預かった1ムナを、主人の厳しさに恐怖して使わず大事にしまっていた者もあった。
 稼がなかった僕に主人はいった、──
 「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰ってきたとき、利息つきでそれを受け取れたのに。」(ルカ19:22-23)
 そうして他の者に命じて、件の僕の持つ1ムナを取りあげて10ムナを稼いだ僕に贈らせた。「だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」(ルカ19:26)

 ルカ19:28-44〈エルサレムに迎えられる〉
 エリコを発ったイエスはエルサレム近郊の村で調達させたロバに乗り、一路<ダビデの町>、かつての都エルサレムへ最後の行進を始めた。その途次、弟子たちはかれを讃美し、ファリサイ派の人々は眉をひそめた。
 「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。』」(ルカ19:41-44)

 ルカ19:45-48〈神殿から商人を追い出す〉
 エルサレムへ入城したイエスは神殿に向かい、そこで商いをしていた商人たちを片っ端から追い出していった。わたしの家は祈りの家であるべきなのに、お前たちは強盗の巣にしてしまった、といいながら。
 それから毎日、イエスは神殿の境内で教えた。その様子を祭司長や律法学者、民の指導者たちは快く思わなかった。かれらはイエス殺害を計画した。が、実行は難しかった。というのも民衆は皆夢中になってイエスの話にじっと耳を傾け、その言葉、その教え、その福音に感じ入っていたからである。

 10ムナを僕たちへ預けていった、王位に就いたその人は、ノートからは一切省いたが、到底国民の信を得られるような人ではなかった(ルカ19:14)。1ムナをしまっていた僕も王の気質、気性を知っていて、与えられたお金を使っても利益を出すような商売ができなかったらどうなるか、損害を出したりしたらどれだけの怒りを蒙るか、と、いろいろ計算してしまったのかも。
 が、王はむろん、そんなことは望まなかった。与えたお金を有効に活用することで、かれらの能力を見出そうとしたのだろう。それを端的に示す言葉が、「ごく小さなことに忠実」というものである。与えられた1ムナを元手に利益をあげた僕たちは、ごく小さなことにも注意を払い、気を回し、そうしたことについては忠実かつ誠実であった。自分の頭ですべてを考え、邪念などはなかったのである。1ムナをしまっていた僕にはそれができなかった。どんなに些細なことについても忠実ではあり得ぬ、と評価を下されたのである。
 「持っている者は更に与えられ、持っていない者は持っているものまで取りあげられる」とは不公平かもしれぬが、これこそまさしく人生の真理であり、世界が循環するための、窮極の<理>なのだ。
 なお、「ムナ」はギリシアの通貨単位である。ルカ19:13で僕たちへ渡された10ムナは1,000ドラクメ、つまり1ムナは1,000ドラクメの1/10=100ドラクメであり、1日分の賃金;100デナリオンと同価である。デナリオンと基準にして考えれば、1ムナとは実に100日分の賃金に相当する、ということだ。約3ヶ月分である。新卒社会人の平均月給が約20万円とされる今日の勘定でゆけば、だいたいそれは約60万円程度だ。僕たちを試す名目はあったかもしれぬけれど、王が1人1人へ与えた額面がそれなりに高いものであったことがわかる。
 さて、イエスとその弟子たちの、第9章第51節から始まったエルサレム行は本章第41節を以て終わった。もはやイエスは旅空の人ではない。エルサレムにあって福音を宣べ伝え、反対勢力と戦う人である。それは即ち、公生涯の最後の日々の幕開けである。今後紹介される挿話は、勿論多少の差異はあるといえども「マタイ」、「マルコ」と著しく変わるところはない。が、殊に捕縛から処刑、死、そうして復活へ至る一連の描写は力強く、狂ほしく、残酷なまでの美に彩られている。雄渾な筆致と相俟って受ける感銘は、ややもすると先の2つの福音書に優ろう。しかしこれはまだ明日以後にならねば実感できぬ。興奮が過ぎたようだ。ともかく本章は「ルカによる福音書」の、構成上の分岐点である、とだけいまは指摘しておく。

 本日の旧約聖書はルカ19:46とイザ56:7。◆

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