第1967日目 〈ルカによる福音書第24章:〈復活する〉、〈エオマで現れる〉他with「ルカによる福音書」読了のごあいさつ。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第24章です。

 ルカ24:1-12〈復活する〉
 斯くしてニサンの月の13日、金曜日の午後3時頃、十字架上の人イエスは死んだ。その遺骸はサマリア地方のユダヤ人の町アリマタヤ出身のヨセフに引き取られ、岩を掘り抜いて作られた、まだ使われていない墓の奥へ安置された。入り口は石で閉じられた。一方、ガリラヤ地方から一緒に来た婦人たちは遺体に塗る香料と香油の準備をその日のうちに済ませ、翌る安息日は掟に従い休んだ。
 ──そうして週の始めの日、即ち日曜日の未明、婦人たちは墓に行って驚いた。墓穴を閉じていた石が動かされていたからである。彼女たちが恐る恐るなかへ入ってゆくと、輝く衣を着た人が2人いて、語りかけてきた。曰く、なぜ生きている人を死者のなかに捜すのか、と。あの方は復活した、3度まで口にされた死と復活の予告をあなた方は聞かなかったのか。
 婦人たちは墓をあとにして、いま見聞きしたことを、いまや11人となった使徒とその他大勢に伝えた。人々はこれを戯言と思い、取り合わなかった。が、ペトロは違った。「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」(ルカ24:12)

 ルカ24:13-35〈エオマで現れる〉
 このあと、イエスの弟子たちは諸所へ赴いた。そのなかにエルサレム西北西、約11キロ(60スタディオン)離れたところにある町エオマに向かう2人がいた。1人の名はクレオパ、もう1人の名は伝わっていない。
 かれらが過越祭前日のエルサレムでの出来事を話し合いながら歩いているとき、2人と同行する者が現れて、エルサレムでなにが起こったのか、と訊ねられたことに驚いた。そこでかれらは、ナザレのイエスの死刑判決からゴルゴタの丘での磔刑と絶命、それから3日経った今日の復活の実現、しかし墓には亜麻布だけが残されていた不思議について、語って聞かせた。
 が、実はこの同行者こそ復活したイエスであった。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24:16)のである。かれイエスはクレオパたちの不信仰を嘆き、そうして「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」(ルカ24:27)、自分のことに触れている箇所を取り挙げて説明した。
 一行はやがてエオマの町の郊外にさしかかった。クレオパたちは、その先に行こうとするイエスを引き留めて同宿してくれるよう誘い、共に食事の席に着いた。イエスが祈りを唱えながらパンを裂き、クレオパたちに差し出した。かれらはそれを受け取った。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(ルカ24:31)
 ──かれらはエルサレムへ戻り、シモンに自分たちが見聞きしたことを報告した。他の弟子たちも同じように復活したイエスと会った旨、シモンに報告していた。

 ルカ24:36-49〈弟子たちに現れる〉
 すると、集まっている弟子たちの真ん中にイエスは現れた。皆、亡霊を見る思いでイエスを見た。弟子たちにイエスはいった。亡霊には肉も骨もないが、見なさい、わたしには肉も骨もある。
 「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:44-49)

 ルカ24:50-53〈天に上げられる〉
 然る後、イエスは弟子たちをオリーブ山の南東麓の町ベタニアの付近へまで連れてゆき、かれらを祝福した。
 「そして、祝福しながら彼らを憐れみ、天に上げられた。」(ルカ24:51)
 弟子たちはイエスを伏し拝み、神殿の境内で日夜神を讃仰した。

 1冊の福音書がここに終わる。が、「マタイ」や「マルコ」と読後の印象が随分と異なるのは、「ルカ」がオープン・エンディングの体を為しているせいだ。このあとに同じ著者の筆に成る「使徒言行録」が控えるからだろう。そうして今日の最終章は一部に「使徒」の並行箇所を持つ。誠、「ルカによる福音書」が1冊の書物の前半であり、「使徒言行録」が後半であるとされる所以である。
 まだ「ヨハネ」を読んでいないので意見は控えるが、わたくしは4つの福音書のなかでこの「ルカ」がいちばん好きかもしれぬ。「ヨハネ」と「使徒」を読んだら、再びこの話題を取り挙げて回答したい。
 本章について述べておきたい点は1つ。ルカ24:12にて唯ペトロ1人がイエスの墓所へ行き、亜麻布のみがある他はもぬけの殻であることを自分の目で確かめた。果たしてこれまでのペトロなら斯様な行動を取ったであろうか。
 わたくしは「否」であると思う。イエスの死に接して、ペトロのなかでなにかが変わったのである。もはや目の前の出来事に我を忘れて有頂天になったり、イエスの意図を汲み取り損ねてとんちんかんな発言をしてみせる、なんだか頼りない、ぬーぼーとした印象のペトロではない。エルサレムの人にイエスの仲間と見抜かれて苦しい言い逃れに終始するようなペトロでは、ない。
 内面に信念と尊敬と信仰、そうして愛を宿して揺るぎなきものとしてそれを信奉する、使徒団の頼りになるリーダーであり、イエスの福音に最も理解を示し、パウロ登場までは最も熱心に福音を説いて当時の全世界を回った人である。
 引用した箇所でいちばん重要なのは、「しかし」という接続詞、この一語。ペトロはイエスが生前口にしていた復活を、この瞬間に信じたのである。イエスの福音を、敬虔なる思い持って自分の内へ受け入れたのだ。いわばこれは<肉>から<霊>への信仰の転換だ。このとき、ペトロは真に非凡な存在となったのである。



 「ルカによる福音書」は本日で読み終わりました。気のせいか、なにやら右往左往した印象がありますが、たぶん気のせいでありましょう。奈良への旅行が途中で入ったせいかな。今日までゆるりゆるりとお読みいただきありがとうございました。
次の「ヨハネによる福音書」は準備でき次第の読書ノート開始となります。6月上旬から中旬にかけての聖書読書ノートブログの再開を予定しておりますが、さて、どうなることやら。◆

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