第2003日目 〈ドストエフスキー『貧しき人びと』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 6月29日──真夜中の4分過ぎ、寝床のなかで、ドストエフスキー『貧しき人びと』を読了。満足の思いを以て!
 わたくしは3週間程前に、第1979日目として本作再読の開始を報告した。わが『貧しき人びと』読後の感想は以前のものを前編、今日のものを後編としてお読みいただければ、と思う。
 改めて申しあげれば、わたくしはマカール・ジェーヴシキンに自分の似姿を見る。自分にまつわる事件でも起きない限り、社会からも職場からもその存在を無視されるに等しいマカール・ジェーヴシキンへ、わたくしは己を重ね合わせるのだ。それはもしかすると、ひび割れた鏡に映る歪んだ自画像への仄かな友情かもしれない。
 いったいぜんたいマカール老人に同情も共感も覚えない人がいるだろうか。淋しいという感情が欠落し、全き孤独とは無縁の人生を過ごし、況んや虐げられたことも迫害されたこともない、人生常に昇り調子な人の目には、マカールはサーカスのピエロに過ぎないのだろう。が、そんな人々は思い出すべきだ、ピエロが元来悲しい存在であることを。
 一方で本作のヒロイン、薄倖のワルワーラ・ドブロショーロワは身寄りもなく病弱な、収入源はわずかな針仕事があるのみで、このまま世間の片隅にて独りで生活し、そのまま老いさらばえていっても可笑しくない女性だった──そんな彼女が物語の終盤、かねてより因縁あったと思しきブイコフ氏との結婚を決めた。読者側としては頗る付きで唐突な結婚であった、ワルワーラの側に相手への愛情なぞ砂粒1つ程もなかっただろうからだ。
 ブイコフ氏は曠野(ステップ)に自分の村を「持って」おり、すくなくとも相応の経済力はある人物と推察される。それでいてワルワーラの嫁入り仕度には、やれお金が掛かりすぎる、だの、こんなことなら結婚など申しこまなければよかった、だのと、まぁ愚痴ること、愚痴ること。
 それでもワルワーラにはかれの経済力へ恃むところがあった。相手への気持ちよりも生活の安定、極貧からの脱出、将来不安からの解放を選んでもふしぎでない環境にいたのだ。彼女の結婚にアンナ・フョードロヴナが一枚噛んでいたことは疑いないが、ワルワーラにも自分の考え(一部はそれを<計算>という)あっての決断である。情よりも実を取った、ありがちな婚姻といえるかもしれない。が、結婚の真実とは存外こんなところに転がっているようである。
 アンナ・フョードロヴナとブイコフ氏、ワルワーラの3人の因縁がどのようなものか、手掛かりは多くないけれど本文を精査し、行間を読みこんでゆけば、書かれなかった事実がその暗い姿を現すやもしれぬ。『貧しき人びと』を三読する機会あれば、書かれることのなかった3人の因縁の探索がテーマとなるに相違ない。
 9月23日付の手紙でワルワーラはマカールへ結婚の報告をした、それが苦渋の決断であったことの告白附きで! その直前の9月1日、われらが主人公はワルワーラに宛てて書く綴りき。曰く、「わたしは君の気に入ることならなんでもやります。品行もつつしみます……わたしたちはまたお互いに幸福な手紙をやり取りし、自分たちの考えや喜びをわかちあいましょう。ふたりで仲よく、幸福に暮らしましょう。文学の勉強もやりましょう……わたしの天使さん!」(P216)と。
 ──嗚呼、かれの希望は一切が打ち砕かれたのだっ!! それでもなお離れてゆくワルワーラにすがる想いは、嗚呼、最後の手紙の最後のパラグラフに痛々しいまでに充満している……!
 『貧しき人びと』に感銘を受けたらば、是非にもゴーゴリの『外套』を繙くといい。ゴーゴリなくしてマカールもワルワーラも生まれることはなく、市井の人々へ種々の情を注ぎ続けたドストエフスキーの文学も「現代の予言書」と謳われるような発展はし得なかっただろうからだ。『貧しき人びと』の原型たる『外套』を併読することで、『貧しき人びと』に登場する人々への共感、その世界への沈潜もいや増すことと思うのだ。
 初読の際の感想とは正反対の感想を抱いて終えた再読の喜びを胸のうちで大切にしながら本稿を書き得たことに感謝する。◆

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