第2005日目 〈ヨハネによる福音書第1章:〈言が肉となった〉、〈洗礼者ヨハネの証し〉他with福音書読み始めにあたっての愚痴めいたもの。〉 [ヨハネによる福音書]
ヨハネによる福音書第1章です。
ヨハ1:1-18〈言が肉となった〉
初めにあったのは<言葉>である。それは神と共にあり、即ち言(ことば)は神であった。「この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハ1:2)よろず言によって成らなかったものはなく、なべて言によって成ったのだった。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ1:4-5)
然るべき時、然るべき場所に然るべき者が現れる。ここへ神の意志により洗礼者ヨハネが地上の人となった。かれはまことの光、世のすべての人を照らす光について証しをするために来た。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(ヨハ1:10)
言は自分の民にまで拒まれた。が、幸いなことにそれを受け入れる者たちもいた。その名を信じる者も出た。ゆえに言はかれらに神の子たるの資格を与えた。
読者よ、われらは皆、言が肉となり、われらの間に宿るのを見た。その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であり、恵みと真理に満ちていた。洗礼者ヨハネが来たのはこの方について証しするためであった。
読者よ、われらは皆、この方の満ちあふれる豊かさのなかから恵みを受け、その上更に恵みを受けた。モーセを通して律法を与えられたように、恵みと真理はこの方即ちイエス・キリストにより与えられたのである。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ1:18)
ヨハ1:19-28〈洗礼者ヨハネの証し〉
エルサレム在住ユダヤ人たちは謀ってファリサイ派の祭司たち、レビ人らを洗礼者ヨハネの許へ行かせた。そうして、メシアでもなければエリヤでもない、預言者でもないならば、あなたはいったい何者なのか、と質問させた。
ヨハネは自分の言葉では答えず、代わりにイザヤの言葉を引用して曰く、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である/『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハ1:23)と。
エルサレムのユダヤ人集団から使わされたファリサイ派の祭司たち、レビ人らは、メシアに非ず、エリヤに非ず、預言者に非ず、と自分を呼ばわるあなたは、ではなぜ人々へ水で洗礼を施すのか、と問うた。
ヨハネは答えた。あなたたちのなかには、あなたたちもまだ知らない方がいる。その方はわたしのあとから来ることになっている。わたしにはその方の履き物の紐を解く資格すらない者だ。
──これは当時ヨハネが洗礼を行っていたベタニアという、ヨルダン川東方にあってペレア地方にある町での出来事であった。
ヨハ1:29-34〈神の小羊〉
その翌日。ヨハネは自分の方へ歩いてくるイエスを見、かれを指していった。
あの方が世の罪を取り除く神の小羊である。かつてわたくしが証しをしたのはこの方についてであった。この方がイスラエルへ現れるために、わたしは水で洗礼を授けていたのだ。
説明しよう、わたしを遣わした方がこういうのを聞いた。曰く、霊が鳩のように降って或る人に留まる、その人こそが聖霊によって洗礼を授けるのだ、と。わたしヨハネはこの方イエスの上に霊が鳩のように降ってきて、留まるのを見た。ゆえにこの方こそが神の子である。わたし洗礼者ヨハネがこれを証す。
ヨハ1:35-42〈最初の弟子たち〉
その翌日。洗礼者ヨハネは2人の弟子と共に、歩いているイエスを見ていた。あの方が神の小羊である。ヨハネがそういうのを聞いた弟子たちは、ヨハネから離れてイエスへ従うようになり、かれのところに泊まった。午後4時頃のことだ。
イエスに従った弟子2人のうち、1人はガリラヤ地方の町ベトサイダ出身のアンデレである。かれは兄弟シモン・ペトロに、自分はメシアに出会ったよ、と伝え、シモンをイエスに引き合わせた。
シモンを見てイエスは、あなたをケファつまり「岩」と呼ぶことにしよう、といった。
ヨハ1:43-51〈フィリポとナタナエル〉
その翌日。ナタナエル(ガリラヤ地方カナの出身)は新しくイエスの弟子となったフィリポ(シモン、アンデレ兄弟と同じガリラヤ地方ベトサイダ出身)から、律法と預言者たちによってかねてよりその出現を予告されていたメシア、即ちイエスのことを聞かされた。かれはナザレのような寒村から良いものが出るのだろうか、といささか懐疑的であったが、フィリポの熱心な奨めもあり、とにかくイエスに会ってみることにした。
まことのイスラエル人がこちらへ来る、かれは偽りのない人だ、とイエスに評されたナタナエルは、今日こうしてここへ来る前からイエスが自分のことを知っていたことを知ると、イエスをイスラエルの王にして神の子と讃えた。そうしてかれもイエスの弟子の1人となったのである。
かれらにイエスはいった、──
「もっと偉大なことをあなたがたは見ることになる。(中略)はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の湖の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(ヨハ1:50-51)
──と。
本章冒頭<言が肉となった>を読んで、「創世記」第1章天地創造を思い出した方も多いと思います。著者がどれだけ意識していたか知りませんが、巻頭に置かれるに相応しく、また洗礼者ヨハネとイエス・キリストの為すべき事柄、果たすべき役割を端的に物語ってこれ以上は望めぬ技法を凝らした文章と思います。就中ヨハ1:1-5についてはなんだかとてつもなく凄いことが始まる予感を抱かせる点で、まさしく「創世記」の天地創造と響きあうものを持っております。
本章では12使徒のうちでも最初の弟子集団の形成が(やや駆け足気味に)語られます。注目すべきはフィリポとナタナエルの弟子入りに触れられていること。おそらく著者が参考にした資料のなかには2人の弟子入りを報告する文書があった、或いはそれを知る口承者がいたのでありましょうね。
共感福音書ではシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネがガリラヤ湖畔でイエスに従うようになった以外は徴税人マタイ/レビが召命される場面がある程度でした。
フィリポが、かねてより預言されてきた人に自分は会った、その人はナザレの人イエスだ、とナタナエルに伝え、ナザレからなにか良いものが出るのだろうか、とナタナエルが疑を呈す件り、そうしてナタナエルがイエスに会ってかれをイスラエルの王と讃える件りは、他の弟子たちの召命場面を霞ませてしまう程に印象的で、記憶に残るのであります。なお、このナタナエルは12使徒の1人でフィリポと対で紹介されるバルトロマイのことか、と昔から考えられている由(ex;マタ10:3,マコ3:18,ルカ6:16)。
洗礼者ヨハネの許を離れてイエスの弟子となった2人のうち、アンデレでない方はいったい誰なのだろう……。
本日の旧約聖書はヨハ1:23とイザ40:3。
事の序でに、4福音書のなかで「ヨハネによる福音書」は旧約聖書からの引用がいちばん少ない書物であることを、備忘も兼ねて報告しておきます(新共同訳聖書、引用箇所一覧表に基づく)。
「前夜」にてわたくしは「ヨハネによる福音書」を指して「ふしぎな書物である」と申しあげた記憶があります。捉えどころのなさに最初は困惑して斯様な感慨に至るわけですけれど、それを通り越えると今度は「難しい書物だ」、「奇っ怪な書物だ」という感想を持つようになる。わたくしはそうだった、という甚だ私的なものでしかありません。
が、改めて第1章から順番に読み進めてゆくと、共観福音書以上に何度も何度も読み返して、文意や流れの悪い箇所について考え倦ね、ようやく筋が見えてきてノートの筆を執ってもすぐに雲散霧消。仕方なく読書を最初からやり直し、同じ工程を何度も繰り返すことになる。必然的に内容を把握するのにこれまで以上に時間がかかり、ノートも三稿、四稿と推敲してゆくことになる。それでなおこの程度なのだから、われながら溜め息をつき、頭を抱え、前途に絶望してしまいます。──まぁ、ここまでは単なる愚痴であります。読書百遍意自ずから通ずる、を実践してゆく他ないですね。
明日から休むことなく「ヨハネ伝」を読んでゆこう、っと。◆
ヨハ1:1-18〈言が肉となった〉
初めにあったのは<言葉>である。それは神と共にあり、即ち言(ことば)は神であった。「この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハ1:2)よろず言によって成らなかったものはなく、なべて言によって成ったのだった。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ1:4-5)
然るべき時、然るべき場所に然るべき者が現れる。ここへ神の意志により洗礼者ヨハネが地上の人となった。かれはまことの光、世のすべての人を照らす光について証しをするために来た。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(ヨハ1:10)
言は自分の民にまで拒まれた。が、幸いなことにそれを受け入れる者たちもいた。その名を信じる者も出た。ゆえに言はかれらに神の子たるの資格を与えた。
読者よ、われらは皆、言が肉となり、われらの間に宿るのを見た。その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であり、恵みと真理に満ちていた。洗礼者ヨハネが来たのはこの方について証しするためであった。
読者よ、われらは皆、この方の満ちあふれる豊かさのなかから恵みを受け、その上更に恵みを受けた。モーセを通して律法を与えられたように、恵みと真理はこの方即ちイエス・キリストにより与えられたのである。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ1:18)
ヨハ1:19-28〈洗礼者ヨハネの証し〉
エルサレム在住ユダヤ人たちは謀ってファリサイ派の祭司たち、レビ人らを洗礼者ヨハネの許へ行かせた。そうして、メシアでもなければエリヤでもない、預言者でもないならば、あなたはいったい何者なのか、と質問させた。
ヨハネは自分の言葉では答えず、代わりにイザヤの言葉を引用して曰く、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である/『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハ1:23)と。
エルサレムのユダヤ人集団から使わされたファリサイ派の祭司たち、レビ人らは、メシアに非ず、エリヤに非ず、預言者に非ず、と自分を呼ばわるあなたは、ではなぜ人々へ水で洗礼を施すのか、と問うた。
ヨハネは答えた。あなたたちのなかには、あなたたちもまだ知らない方がいる。その方はわたしのあとから来ることになっている。わたしにはその方の履き物の紐を解く資格すらない者だ。
──これは当時ヨハネが洗礼を行っていたベタニアという、ヨルダン川東方にあってペレア地方にある町での出来事であった。
ヨハ1:29-34〈神の小羊〉
その翌日。ヨハネは自分の方へ歩いてくるイエスを見、かれを指していった。
あの方が世の罪を取り除く神の小羊である。かつてわたくしが証しをしたのはこの方についてであった。この方がイスラエルへ現れるために、わたしは水で洗礼を授けていたのだ。
説明しよう、わたしを遣わした方がこういうのを聞いた。曰く、霊が鳩のように降って或る人に留まる、その人こそが聖霊によって洗礼を授けるのだ、と。わたしヨハネはこの方イエスの上に霊が鳩のように降ってきて、留まるのを見た。ゆえにこの方こそが神の子である。わたし洗礼者ヨハネがこれを証す。
ヨハ1:35-42〈最初の弟子たち〉
その翌日。洗礼者ヨハネは2人の弟子と共に、歩いているイエスを見ていた。あの方が神の小羊である。ヨハネがそういうのを聞いた弟子たちは、ヨハネから離れてイエスへ従うようになり、かれのところに泊まった。午後4時頃のことだ。
イエスに従った弟子2人のうち、1人はガリラヤ地方の町ベトサイダ出身のアンデレである。かれは兄弟シモン・ペトロに、自分はメシアに出会ったよ、と伝え、シモンをイエスに引き合わせた。
シモンを見てイエスは、あなたをケファつまり「岩」と呼ぶことにしよう、といった。
ヨハ1:43-51〈フィリポとナタナエル〉
その翌日。ナタナエル(ガリラヤ地方カナの出身)は新しくイエスの弟子となったフィリポ(シモン、アンデレ兄弟と同じガリラヤ地方ベトサイダ出身)から、律法と預言者たちによってかねてよりその出現を予告されていたメシア、即ちイエスのことを聞かされた。かれはナザレのような寒村から良いものが出るのだろうか、といささか懐疑的であったが、フィリポの熱心な奨めもあり、とにかくイエスに会ってみることにした。
まことのイスラエル人がこちらへ来る、かれは偽りのない人だ、とイエスに評されたナタナエルは、今日こうしてここへ来る前からイエスが自分のことを知っていたことを知ると、イエスをイスラエルの王にして神の子と讃えた。そうしてかれもイエスの弟子の1人となったのである。
かれらにイエスはいった、──
「もっと偉大なことをあなたがたは見ることになる。(中略)はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の湖の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(ヨハ1:50-51)
──と。
本章冒頭<言が肉となった>を読んで、「創世記」第1章天地創造を思い出した方も多いと思います。著者がどれだけ意識していたか知りませんが、巻頭に置かれるに相応しく、また洗礼者ヨハネとイエス・キリストの為すべき事柄、果たすべき役割を端的に物語ってこれ以上は望めぬ技法を凝らした文章と思います。就中ヨハ1:1-5についてはなんだかとてつもなく凄いことが始まる予感を抱かせる点で、まさしく「創世記」の天地創造と響きあうものを持っております。
本章では12使徒のうちでも最初の弟子集団の形成が(やや駆け足気味に)語られます。注目すべきはフィリポとナタナエルの弟子入りに触れられていること。おそらく著者が参考にした資料のなかには2人の弟子入りを報告する文書があった、或いはそれを知る口承者がいたのでありましょうね。
共感福音書ではシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネがガリラヤ湖畔でイエスに従うようになった以外は徴税人マタイ/レビが召命される場面がある程度でした。
フィリポが、かねてより預言されてきた人に自分は会った、その人はナザレの人イエスだ、とナタナエルに伝え、ナザレからなにか良いものが出るのだろうか、とナタナエルが疑を呈す件り、そうしてナタナエルがイエスに会ってかれをイスラエルの王と讃える件りは、他の弟子たちの召命場面を霞ませてしまう程に印象的で、記憶に残るのであります。なお、このナタナエルは12使徒の1人でフィリポと対で紹介されるバルトロマイのことか、と昔から考えられている由(ex;マタ10:3,マコ3:18,ルカ6:16)。
洗礼者ヨハネの許を離れてイエスの弟子となった2人のうち、アンデレでない方はいったい誰なのだろう……。
本日の旧約聖書はヨハ1:23とイザ40:3。
事の序でに、4福音書のなかで「ヨハネによる福音書」は旧約聖書からの引用がいちばん少ない書物であることを、備忘も兼ねて報告しておきます(新共同訳聖書、引用箇所一覧表に基づく)。
「前夜」にてわたくしは「ヨハネによる福音書」を指して「ふしぎな書物である」と申しあげた記憶があります。捉えどころのなさに最初は困惑して斯様な感慨に至るわけですけれど、それを通り越えると今度は「難しい書物だ」、「奇っ怪な書物だ」という感想を持つようになる。わたくしはそうだった、という甚だ私的なものでしかありません。
が、改めて第1章から順番に読み進めてゆくと、共観福音書以上に何度も何度も読み返して、文意や流れの悪い箇所について考え倦ね、ようやく筋が見えてきてノートの筆を執ってもすぐに雲散霧消。仕方なく読書を最初からやり直し、同じ工程を何度も繰り返すことになる。必然的に内容を把握するのにこれまで以上に時間がかかり、ノートも三稿、四稿と推敲してゆくことになる。それでなおこの程度なのだから、われながら溜め息をつき、頭を抱え、前途に絶望してしまいます。──まぁ、ここまでは単なる愚痴であります。読書百遍意自ずから通ずる、を実践してゆく他ないですね。
明日から休むことなく「ヨハネ伝」を読んでゆこう、っと。◆