第2007日目 〈ヨハネによる福音書第3章:〈イエスとニコデモ〉、〈イエスと洗礼者ヨハネ〉&〈天から来られる方〉with汚濁末法の世を生き抜くために、〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第3章です。

 ヨハ3:1-21〈イエスとニコデモ〉
 最高峰院の議員でファリサイ派のユダヤ人、ニコデモという人がいた。かれは或る夜、イエスを訪れて、イエスが行った数々の徴について讃えた。それについてイエスはいった、人は新しく生まれなくては神の国を見ることはできない。
 続けてイエスはいった、──
 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハ3:5-8)
 そんなことがありましょうか、とニコデモが問うた。
 イエスは答えた。わたしは知っていることを語り、見たことを証ししている。地上のことを話しても信じない人々が、どうして天について語られることを信じられようか。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ3:13-15)
 そうしてイエスは言葉を続けた。神はその独り子を遣わす程にこの世を愛している。世の人々のうち、独り子を信じる者が1人として滅びることのないようにである。覚えておいてほしい、神がその独り子を遣わしたのは、御子によって世が救われるように、という想いからなのだ、と。
 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ3:18-19)
 悪を行う者が光の方ではなく闇の方を向き、そちらを好むのは、自分たちの行いが白日の下に曝されるのを恐れるからだ。翻って真理を行う人は、それが神の導きによって為されたのが明らかになるので光の方に来る。
──と、イエスはニコデモにいった。

 ヨハ3:22-30〈イエスと洗礼者ヨハネ〉
 その後イエスは弟子たちを伴ってユダヤ地方へ行き、人々へ洗礼を授けた。一方洗礼者ヨハネもヨルダン川西岸デカポリス地方の町アイノンで洗礼を授けていた。
 或るとき、ヨハネの弟子たちと1人のユダヤ人の間で清めについて論争が起こった。弟子たちはヨハネの許へ行き、かれがヨルダン川の向こう岸で見附けたイエスも同様に人々へ洗礼を授けていること、人々がヨハネではなくイエスの方へ向いてしまっていることを伝えた。
 洗礼者ヨハネは弟子たちにいった、──
 われはメシアに非ず、何者にも非ず、ただあの方の前に遣わされた者なり、とわたしはいった。これはあなた方が証ししてくれる。あの方は花嫁を迎える花婿のようなものだ。ならばわたしは花婿の介添人に過ぎない。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハ3:30)

 ヨハ3:31-36〈天から来られる方〉
 続けて洗礼者ヨハネは弟子たちにいった、──
 天から来られた方はすべてのものの上に坐す。この方は見たこと、聞いたことを証しするが、何人もこれを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
 「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ3:34-36)
──と。

 既に第1章からして本福音書が共観福音書とは指向するところの異なる書物であることが窺われた。その憶測は本章に至って決定事項となったようだ。この福音章は、専らイエスの思想や霊性にスポットをあてたものであることがはっきりするのは、他ならぬ本章で語られるイエスとニコデモの会談に於いてである。
 人と神はまず洗礼によって結び付けられ、神の国を見る(「入る」と同義)資格を得る。イエスとニコデモの語らい/質疑応答によってわかるのは以下の2項、──
 ・人は新たに霊によって生まれなくてはならない。
 ・(神の)独り子を信じる者は永遠の命を得、信じない者は裁かれる。
 これを踏まえて読み返すと、最初はちんぷんかんぷんだったヨハ3:1-21が、まさに目からウロコが落ちたようなあざやかな驚きと感銘を伴って読めるようになる。
 補足として、フランシスコ会訳の解説の一節を引く。「(「ヨハネによる福音書」にも)洗礼や聖体についての神学は存在する。洗礼によって人は神の国に属する者となり、神の子となる。イエスを信じる者は、その人の中から生ける水が流れ出る、すなわち聖霊を受ける」(P222)と。これは次章を読む際にも思い出していただきたい箇所である。
 ヨハ3:22以後の洗礼者ヨハネの言葉と併せて、本章は「ヨハネによる福音書」読解の鍵となるだろう。

 本日の旧約聖書はヨハ3:14と民21:4-9(就中民21:9)。



 裏切りや陰口、企みや陰謀があるのを感じる都度、また奈良に行って仏像を見て、長谷観音で心を平静にしたい、と願う。ひたぶるに、それを願う。◆

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