第2014日目 〈ヨハネによる福音書第8章1/2:〈わたしもあなたを罪に定めない〉、〈わたしの行く所にあなたたちは来ることができない〉他渡部昇一『青春の読書』読進中。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第8章1/2です。

 ヨハ8:1-11〈わたしもあなたを罪に定めない〉
 朝早い時刻。オリーブ山の寝所からエルサレムへ来たイエスは、神殿の境内で人々が1人の女を取り巻いているのを見た。ユダヤ人たちがさっそくイエスを見附けて、その女の処遇について意見を求めた。かれらがいうには、この女は不倫をしており、情夫と交わるその現場を見られて身柄を押さえられた由。
 イエスはかれらの台詞を聞きながらしゃがみこみ、地面に指でなにか書きつけていた。ユダヤ人たちが重ねてイエスに問うた、この女をどうすればよいか意見を聞かせてください、モーセの律法では姦通する女は石で打ち殺せ、とあります、と。かれらはイエスを試そうと斯く問うていたのである。
 そうしてイエスは立ちあがり、こういった、──
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハ8:7)
 すると女を取り巻いていたユダヤ人は年長者から順に、1人、また1人と、女に石を投げることなくその場を去った。件の女とイエス以外、誰もいなくなった(then there were none)。
 イエスは女にいった。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯すことのないように。

 ヨハ8:12-20〈イエスは世の光〉
 イエスは再び人々にいった。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇のなかを歩かず、命の光を持つ。」(ヨハ8:12)
 そのあとファリサイ派の人々とのやり取りを経て、かれはこういった。わたしは自分が何者であり、どこから来てどこへ行くのか、知っている。が、あなた方はわたしについて知ることがない。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。」(ヨハ8:15-17)
 ファリサイ派の人々が、では、あなたの父はどこにいるのか、と訊ねた。
 イエスは答えた、──
 「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」(ヨハ8:19)
 これらのことをイエスは神殿の境内の宝物殿のそばで話した。イエスを捕らえようとする者があったけれど、誰もこれを果たし得なかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

 ヨハ8:21-30〈わたしの行く所にあなたたちは来ることができない〉
 わたしは去る。あなた方はわたしを捜す。が、わたしの行くところへあなた方は来ることができない。そうイエスはいった。
 人々はイエスの言葉に引っ掛かるものを感じた。われらはかれを捜せない、われらはかれの行くところへ行くことができない、とはどのような意味だろう、この人はどこかで自殺でもするつもりなのか、と、かれらは囁き交わした。
 イエスはいった、──
 「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(ヨハ8:23-24)
 人々はイエスに、あなたはいったいどなたですか、と問うた。
 イエスはいった、──
 それについては初めから話している。
 続けて曰く、──
 「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」(ヨハ8:28-29)
 これを聞いた多くのユダヤ人がイエスを信じるようになった。

 ここまで読んできて思うたことだが、イエスは自分について証しする際、自らの言葉で、自発的に語っていることがない。すべては人々の問答のなかで触れられ、或いはそれを承けてイエス自身が述べている。これも「ヨハネによる福音書」に露わなことで、逆に共観福音書ではお目に掛かること稀な点に数えられよう。
 著者はルカに匹敵するぐらいの文才の持ち主である、というてよい。誤解を恐れずしていえば、「ヨハネによる福音書」の著者は、作家としてはルカと同等、史家としてはやや劣り、思想家としては卓越している。こうした能力を備えているからこそ、直接的な描写はせずとも意図するところへ正確に読者を導き、描写を複層化させることによってイエスの言葉、思想が立体的に読者の前に立ち現れるわけだ。
 本章は未だ前半ながら、読んでいて「浮かびあがる」という言葉をキーワードにして斯様な感想を抱いたのである。
 ところで、これまでにも再三出て来た「わたしはある」とは、どのような意味なのだろう。
 まだしばらく先の読書になるが、ヨハ17:5と同24が解答のヒントとなる。イエスは族長時代以前から──それこそ天地創造のときから既に<言>として存在しており、神なる主と共にあった。ヨハ17:5「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」はそれを暗に示す。
 また、読み返して確かめてみたところ、聖書全巻を通じて「わたしはある」の初出は、出3:14──ミディアンの地にてモーセが神の召命を受けた場面である。エジプトへ戻ってカナン帰還を民へ伝える際、それを命じた神の名を問われたらどう答えればいいのでしょうか、というモーセの訊ねに答えてアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が明かした名が「わたしはある」であった……。
 即ち、「わたしはある」は神なる主の別称だ。イエスはそれを自身の称としても用いている。
 ──「わたしはある」については本来なら本章後半戦の明日、述べるべきであったかもしれぬが(ex;ヨハ8:58)、話題が新鮮なうちにお披露目させていただいた。ご了承願う。

 本日の旧約聖書はヨハ8:5とレビ20:10及び申22:22。



 帰宅後のわずかな時間を縫って少しずつだが渡部昇一『青春の読書』を読み進めています。読書を中心にした自分史を読んでいるに等しいのですが、これがまた溜め息をつくような内容で、氏の幸運と切磋琢磨、揺るぎなき向上心に感服する思いであります。
 わたくしも高三の春休みに『知的生活の方法』正続を読み耽って学問に志したのに、どうしていまのわたくしはここにいて文学研究とも大学とも知的生活とも縁のない時間を過ごしているのだろう。現在が自分にとっていちばん幸せで、これ以上は望むべくもない幸福に浸っていることを否定する気持ちはまったくない。が、10代後半の向上心と知的欲望、先師を仰ぎ見て斯くあらんと欲す想いなどは、どこかへ行ってしまっている。
 こんなことをふと思い出させられて少々心が痛い読書でもあるのだが、それは抜きにしても師の語る豊饒の読書経験、知が満ちてゆく喜びを羨ましく思い、氏の尋常でない量の仕事の源泉を真に発見した気持ちでいる。
 各所に収められた書影、書斎と稀覯本にあふれたカラー写真に、ほう、と讃嘆の溜め息を洩らしつつ、今日も今日とて寝しなの10数分を本書を読んで楽しみ、健やかな眠りを得ようと思う。◆

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