第2021日目 〈ヨハネによる福音書第13章:〈弟子の足を洗う〉、〈裏切りの予告〉他with見たいものは見ることができない。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第13章です。

 ヨハ13:1-20〈弟子の足を洗う〉
 過越祭の前日になった。既に悪魔はイスカリオテのユダに裏切りの考えを抱かせていた。
 イエスはいよいよ自分がこの世から父の許へ移る時が来たのを悟ってすべての弟子たちを愛し抜き、また、父がすべてを自分にゆだねたこと、自分が神の許から来てそこへ帰ろうとしていることを悟り、晩餐の途中で弟子たちの足を洗い始めたのである。イエスはいった。なぜ自分がこのようなことをしているのか、あとになってわかるようになる。
 「ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も。』イエスは言われた。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。』」(ヨハ13:8-10)
 イエスは再び席に着いて、いった。わたしはあなた方に模範を示した。わたしがあなた方の足を洗ったように、あなた方も互いの足を洗うようにしなさい。「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」(ヨハ13:16-17)
 が、わたしはあなた方皆についていっているのではない。わたしのパンを食べる者がわたしを裏切る、という聖書の言葉(詩41:10)は実行されなくてはならない。事が起こる前にわたしはいっておく。事が起こったとき、わたしはある、ということをあなた方が信じるようにである。

 ヨハ13:21-30〈裏切りの予告〉
 続けてイエスは心を騒がせ、こう断言した。あなた方のうちの1人がわたしを裏切る。
 シモン・ペトロがイエスの隣に坐る、イエスの愛した弟子に、裏切るのは誰か訊け、と合図した。イエスに愛された弟子はイエスに訊ね、イエスは答えた、──。
 わたしがパン切れを(ぶどう酒に)浸して渡す相手である。その者がわたしを裏切る。
 イエスは「パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」(ヨハ13:26-27)
 為さんと欲することをただちに為せ。イエスはイスカリオテのユダにそういった。ユダはパン切れを受け取ると、そのままそこから出て行った。

 ヨハ13:31-35〈新しい掟〉
 ユダが去ったあと、イエスはそこに残った11人の弟子たちに向かって、いった。
 いま、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光を受けた。人の子によって神が栄光を受けたなら、神も人の子へ栄光を与える。あなた方よ、わたしはいましばらくあなた方と共に在る。あなた方はわたしを捜すだろうが、既にユダヤ人たちへいうておいたように、あなた方はわたしのいるところへは来られない。
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ13:34)
 互いに愛し合うなら、あなた方は自分がわたしの弟子であることを知るようになる。

 ヨハ13:36-38〈ペトロの離反を予告する〉
 あなた方はわたしのところへ来ることができない。イエスのこの言葉を聞いてシモン・ペトロが、どうしてあなたのいるところへ行けないのですか、あなたへ付いてゆけるならわたしは命を捨てます、といった。
 イエスはペトロの告白をやんわりと否定して、こういった。鶏が鳴くまでに3度、あなたはわたしを知らないという。

 ルカ22:3でもユダの裏切りにはサタンが関与したことが記されている。そのことをヨハ13:2及び27はもっと踏みこんだ記述で触れている。「創世記」の頃からサタンは多くの人の心を惑わし、翻弄させたが(アダムとエバ、ヨブなど)、その1つの完成形、終着点ともいえるのが、ユダによるイエス裏切り/処刑とするのは至極当然か。また本福音書に於いてサタンがイエスを誘惑する場面はなかった。その代わりにユダを背かせ、人の子の地上での生涯に引導を渡した。やはりサタンはイエスの敵対者であり、イエスの活動の軛役となる存在のようだ。
 共感福音書でイエスはファリサイ派の人と、律法でいちばん大事な掟はなにか、について問答を交わした。それは2つあって、そのうちの1つが、レビ19:18にある「隣人を自分の如く愛せ」であった。これをイエスは最後の晩餐に於いて新しい掟として(ユダを除く)11人の弟子たちへ与えた。どれだけ様々のことを宣べ伝えてもイエスの教えの中核を成すのが、互いに愛し合え、という、極めてシンプルかつ最も実現の難しいことであるのを改めて実感。信じる者は救われる、それは神の前に平等であるがため。その根幹を成すのが、新しい掟としてイエスが弟子たちに説いた<博愛>である。
 互いに愛し合いなさい—隣人を自分の如く愛せ、とは、汝の敵を自分の如く愛せ、というのとなんら変わるところはない。こうした平等と博愛の精神を是とする教えが浸透した世界は、なんとすばらしく、なんと肩身の狭い思いをすることだろう。

 本日の旧約聖書はヨハ13:18と詩41:10、ヨハ13:34とレビ19:18。



 某所のスターバックスにて本稿執筆中。壁一面がガラス張りになっている。床上10数センチのところから約6、7メートル上の天上のほぼ際まで、厚さ3センチばかりの強度あるガラスが嵌めこまれている。そこに面したカウンター席のいちばん端で、本稿の筆を執っている。
 時刻は間もなく21時。店内の照明は明るい。細かい活字を読むにもさしたる支障はない程に。カウンターの上にはスポット照明が吊されている。ふと目を正面にやれば、ガラスには自分の姿が映り、隣席の人、店内を歩く人の姿が映し出されていた。
 いつしか頭に白いものが混じって目立つようになり、メタボの1、2歩手前の図体をした自分が映るガラスの向こう側は、中心に人工のせせらぎが流れ、それに沿ってベンチが置かれ樹木が植えられた、散歩するにはもってこいの遊歩道だ。やや強めの風が吹いて、木の枝を揺らしている。そこを、絶え間なく人が行き交う。時刻は21時00分──。
 ガラス壁は店内の人々と外を歩く人々の姿を重ねて映し、時には見分けがつかないぐらいの光景を眼前に示す。が、そこに知った人の姿はない。恋い焦がれる人の顔は、そこにはない。余計なものばかりが見えて、肝心要のものはなにも見えない。消えろ、消えろ、現れよ、すは。姿がないのは不信のゆえか、君よ。疑わずとも心は1つ所へしか向いていないのに。わたくしのアルウェン、わたくしのラキシス。約束の地へ行けるのは、いつ?◆

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