第2028日目 〈ヨハネによる福音書第20章:〈復活する〉、〈本書の目的〉他with岩下壮一の著作を前にして思うこと。〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第20章です。

 ヨハ20:1-10〈復活する〉
 週の初めの日、即ちニサンの月の15日、日曜日のことである。まだ夜の明けきらぬ刻、マグダラのマリアはイエスの墓へ行った。すると、入り口を塞いでいた石が動かされていた。彼女は急いでシモン・ペトロと、イエスが愛した弟子の許へ走って行き、そのことを伝えた。
 ペトロたちはイエスの墓へ走った。先に到着した弟子がなかを覗くと、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置いてある。ペトロは墓へ入り、そこに亜麻布があるのを見附けた。また、イエスの頭を包んでいた覆いは亜麻布から離れたところにあった。イエスが愛した弟子はペトロのあとから墓に入ったがそこに置かれた亜麻布と覆いを見て、信じた。
 「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ20:9)
 そのあと2人は自分の家に帰った。

 ヨハ20:11-18〈イエス、マグダラのマリアに現れる〉
 シモン・ペトロとイエスが愛した弟子が自分の家に帰ったあと、マグダラのマリアが来て、墓の前でずっと泣いていた。そうしてふと墓のなかを見ると、イエスの遺体のあったあたりに天使が2人、立っているのが見えた。
 婦人よ、なぜ泣いているのか。天使たちが訊いた。わたしの主が取り除かれたのです、と彼女はいった。どこにあの方(の遺体)が置かれているのか、わからないのです、とも。
 そうしてマグダラのマリアは後ろを振り返った。そこにはイエスが立っていたが、彼女はそれとわからず園丁だと思いこんでいた。が、やがて彼女は気附いて、ラボニ、とイエスに呼び掛けた。「ラボニ」とはヘブライ語で「先生」という意味である。
 イエスが彼女にこういった、──
 行って、わたしの兄弟に伝えなさい。わが父にしてあなた方の父、わが神にしてあなた方の神の許へわたしは上る。
 ……マグダラのマリアは使徒たちのところへ行き、イエスのこの言葉を伝え、わたしは主を見ました、といった。

 ヨハ20:19-23〈イエス、弟子たちに現れる〉
 その日の夕方、使徒たちはユダヤ人たちを恐れて一軒の家に集まり、扉にはなかから鍵を掛けて息を潜めていた。そこへイエスがどこからともなく現れ、使徒たちに自分であることの証しとして、釘の跡が残る手を見せ、槍で突かれた脇腹を示した。かれらはたしかにそこにいるのがイエスであることがわかって、喜んだ。
 イエスが使徒たちに息を吹きかけて、いった、──
 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハ20:22-23)

 ヨハ20:24-29〈イエスとトマス〉
 イエスが使徒たちの前に姿を見せたとき、その場に居合わせなかった使徒がいた。ディディモと呼ばれるトマスである。われらは主を見た、というかれらに対してトマスはいった、わたしはあの方の手に釘の跡があるのを見、あの方の脇腹の傷に指を入れてみるまでは信じない、と。
 それから8日が経っても使徒たちはトマスも含めてその家にいた。そこへイエスが現れた。トマスはイエスのいうに従って釘の跡が残る手を見、槍に突かれた傷跡に指を入れて確かめ、そうして信じた。
 トマスはいった、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハ20:28)と。
 イエスがいった。お前は見たから信じたのか。見ずしてわたしを信じる者は幸いである。

 ヨハ20:30-31〈本書の目的〉
 「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハ20:30-31)

 ──斯くしてイエスは復活した。それだけでじゅうぶんな気もするが、やはり一言、二言、述べておく。
 マグダラのマリアの報告を承けて、シモン・ペトロとイエスが愛した弟子は墓へと駆けつけた。ヨハ20:8「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」に基づけば、イエスに愛された弟子は亜麻布と覆いを見て、イエスの復活の可能性を信じた。が、この「信じた」は字義通りに捉えるべきではないだろう。というのも続くヨハ20:9に拠れば、この弟子もペトロと同じくイエスの復活については「理解」していなかったからだ。あくまで、どちらかといえばペトロよりはこのイエスに愛された弟子の方が、復活の可能性を信じていた、という比率の面から捉えた方が良いだろうと思う。
 ──イエス捕縛と処刑、それに伴う皺寄せという難を逃れた11人の使徒たちは、そう易々とはイエスの復活を信じなかった。なかでも本福音書にてクローズアップされるのは、トマスとシモン・ペトロである。本章では前者だ。ペトロについては次章で触れられる。
 トマスは他の使徒よりも慎重なのか懐疑的なのか、或いは仲間外れにでもあったような気分になったのか、わたしは自分で確かめるまでは信じない、と宣言した。他の使徒たちは内心、やれやれ、と頭を振って嘆息したかもしれない。そうして8日後、再び現れたイエスを見て、その復活を信じるに至った。イエスの台詞ではないが、まさしく、見ないと信じないのか、である。
 イエスに直接従った12使徒の共通項は(裏切りのユダも含めて)、簡単にはイエスの言葉や業を信じられない鈍さである。何事も現実的なレヴェルで解釈しようというその即物ぶりだ。もしくは、気附きの遅さである。
 親しう接した人が偉大であればある程、傍らに侍る者は相手の本質を見失い、見誤り、過小評価に走る傾向が見受けられる。むしろ対象から距離を置いた人、時間を隔てた人々の指摘によって、かれらは自分たちの過ちを知ることになる。「使徒言行録」を読んでゆくと、残された使徒たちの変化は一目瞭然である。が、それは当初信じていなかったものを或るきっかけによって信じるようになることの実例だ。これがいちばん強くて逞しい、揺らぐことなき信心を生む。11人の使徒然り、パウロ然り。
 わたしの主、わたしの神、とトマスはいった。これはこのあと使徒たちが礎を築き、時代を経てこの星に隈無く浸透した教会の信条となった言葉である由。



 先日購入した岩下壮一『信仰の遺産』(岩波文庫)と『カトリックの信仰』(ちくま学芸文庫)を摘まみ読みしているが、これがなかなか難しい。他にも読んでいる本があるので、腰を据えて読むのは聖書読了後と決めているのだが、机の上にあってiMacの横に置いてあるため、家にいるときは折節手にして開いたページの前後を読むようになる。
 わたくしの理解度はまだ岩下の著書を読む程には至っていないのは承知している。背伸びかもしれない。が、伝記と併せて岩下の著作はわたくしにとって早くも宝物と化し、これを読み倒すのが(聖書読了を別として)当面最も大きな読書の目標となっている。曖昧なものに対する憧憬といえばいえなくもないが、『信仰の遺産』にせよ『カトリックの信仰』にせよ、ふしぎと関心をそそられる書物だ。このふしぎさを解明する意味でも、じっくりとこの2冊を読み耽る日の訪れを待ちわびている。その前に済ませなくてはならぬ読書は山程あるのだけれど……。
 ところで、渡部昇一の著書によってその名を知らずとも、或いはプロテスタントの婚約者が生きていて家庭を持っていたとしても、わたくしは『信仰の遺産』と『カトリックの信仰』を手にして読む意欲を持ったであろうか? 正直なところ、確定されていない過去に基づく未来を知ることは、わたくしにはできない。◆

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