第2029日目 〈ヨハネによる福音書第21章:〈イエス、七人の弟子に現れる〉、〈イエスとペトロ〉&〈イエスとその愛する弟子〉with「ヨハネ伝」読了の挨拶と感慨〉 [ヨハネによる福音書]

 ヨハネによる福音書第21章です。

 ヨハ21:1-14〈イエス、七人の弟子に現れる〉
 その後、イエスが弟子たちの前に現れたのは、ガリラヤ地方のティベリアス湖(ガリラヤ湖)の畔であった。それに接した弟子は7人。シモン・ペトロ、トマスとナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、他2人である。
 かれらはペトロと共に湖に出て漁をしたが、その夜の釣果はゼロだった。夜明け近くになって、かれらはイエスが湖畔に立っているのを見た。初めは誰もイエスと気附かなかったが、イエスの指示によって網を湖に打ったところ夥しい量の魚が獲れたのを契機に改めて見ると、イエスが愛した弟子が気附いて傍らのシモン・ペトロに、主です、と伝えたのである。
 それを聞いたペトロは着物を脱いで裸になり、湖に飛びこんで岸へと泳いでいった。他の者たちはそれ程の距離でもなかったから舟を漕いで岸へ戻った。
 かれらが「陸に上がってみると、炭火が起こしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(ヨハ21:9)
 最早誰もイエスが主であると信じて疑わなかった。弟子たちは、イエスから分け与えられた魚とパンで朝食を摂った。
 ──イエスが復活して弟子たちの前に姿を現したのは、これが3度目である。

 ヨハ21:15-19〈イエスとペトロ〉
 食事を摂り終えたシモン・ペトロにイエスが訊いた。誰よりもわたしを愛しているか。ペトロは、主よ、それはあなたがご存知です、と答えた。するとイエスはいった。わたしの小羊を飼いなさい。
 再びペトロにイエスが訊いた。わたしを愛しているか。ペトロは、主よ、あなたはご存知のはずです、と答えた。するとイエスはいった。わたしの小羊を世話しなさい。
 三度目、イエスがペトロに訊ねた。わたしを愛しているか。
 シモン・ペトロはたまらず悲しくなって、主よ、あなたはなにもかもご存知でしょう、わたしはあなたを愛しています、と告白した。
 イエスがいった、──
 「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(ヨハ21:17-19)
 わたしに従いなさい、とイエスがいった。

 ヨハ21:20-25〈イエスとその愛する弟子〉
 シモン・ペトロのあとから、イエスが愛した弟子がついてきた。かれを指して、ペトロはイエスに、あなたにいちばん愛されたかれはこのあとどうなるのでしょう、と訊いた。
 イエスがいった。わたしの時が来るまでかれが生きているのをわたしが望んだとして、それがあなたにいったいなんの関係があるだろうか。シモンよ、あなたはわたしに従いなさい。
 そこからこの弟子はけっして死なないという噂が生まれた。が、イエスがいうたのは弟子の不死ではない。わたしの時が来るまでかれが生きているのをわたしが望んだとしても、それがあなたにどんな関係があるのか──そう質しただけである。
 「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(ヨハ21:24-25)

 本章はシモン・ペトロの、改めての信仰告白である。舟から湖に飛びこんで誰よりも先に岸へ辿り着いたのも、3度にわたってイエスへの愛を表明して信徒(わたしの小羊)を託されたのも、皆、シモン・ペトロの敬虔を証すものといえよう。
 ところで3度にわたってイエスへの愛を表明した件りは、かつてのペトロの否認を想起させ、またそれと対を成すもののようだ。否認の埋め合わせ、といえば聞こえは悪いが、一度は失われかけたイエスへの信仰が復活し、それが確固たる信念、まさしく<岩>の如き堅固なものへと変わったのである(ex;マタ16:18)。
 愛の表明は否認の埋め合わせ、と述べた。イエスはペトロの愛を確かめるごとに、わたしの小羊を飼いなさい、わたしの小羊を世話しなさい、と伝える。集めて飼うのみならず世話も任せるというのは一種のレヴェル・アップだ。それはシモンの自分への愛が確かめられたたびに、信徒をゆだねる権限を拡大していったに等しい。共観福音書にてイエスがペトロにいうた言葉──あなたは人間をとる(漁る)漁師となる──はここに結実した。
 否、それのみならず、ペトロについてこれまでイエスが口にしてきた諸々がここに綜合されて、シモン・ペトロの新生が江湖に宣言された箇所が、本章である。
 追記すればヨハ21:18のイエスの言葉は、シモン・ペトロが皇帝ネロ時代のローマにて逆さ磔刑されて殉教することを予告している。
 一方でやはりどうしても、イエスが愛した弟子について短くとも触れておかねばなるまい。この弟子が「ヨハネによる福音書」の原著者となる。これが使徒ヨハネである前提で申せば、12使徒のうちこのヨハネだけが唯一殉教を免れて天寿を全うした由。



 いざそのときを迎えてみると用意していた言葉は実を失い、粉々になって消え、あとには虚脱感と形容し難い淋しさばかりが自分のなかに残ってる。「ヨハネによる福音書」を読了したいまの気持ちだ。
 達成感も満足感も、読了後の手応えの大きさ、その他諸々、親愛(深愛?)は定家卿における『拾遺和歌集』の如し。……新約聖書に入って初めての一つの大きな区切りを迎えたことが、わたくしをここまで虚けにしてしまったのかもしれぬ。ゆえの妄言か。許されよ。
 が、なにはともあれ本日を以て「ヨハネによる福音書」読了。読者諸兄よ、ありがとう。あなた方はいつだってわたくしを見捨てず常に共に在ってくださる。サンキー・サイ。
 次の伝ルカ著「使徒言行録」は来月7日あたりからの読書開始を予定している。◆

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