第2042日目 〈使徒言行録第1章:〈はしがき〉、〈約束の聖霊〉他withエデンへの哀歌〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第1章です。

 使1:12〈はしがき〉
 テオフィロ様、申しあげます。前に記したイエス伝のあとを承けて、聖霊を受けた使徒たちがイエスの教えを広め伝えてゆく様子を、第2巻としてここに著し、献呈いたします。

 使1:3-5〈約束の聖霊〉
 復活したイエスは40日間、使徒たちと共に在り、その間、神の国について語った。
 或る日、食事の席でイエスはいった、──
 あなた方はエルサレムを離れず、わたしが約束した聖霊の訪れを待ちなさい。間もなくあなた方は聖霊によって洗礼を受けるのです。

 使1:6-11〈イエス、天に上げられる〉
 使徒たちはイエスに訊いた。イスラエルのために国を建て直すのは、いまこの時ですか。かれらはイエスが信者すべての贖い主とは未だ悟らず、ダビデの如き君主のように思い、捉えていたのである。
 父が定めたその時の訪れがいつのなるのか、あなた方が知る必要はない、とイエスは答えた。続けて、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使1:8)といった。
 それからイエスは天に上げられてゆき、やがて雲に覆われて誰の目にも見えなくなった。──呆然とそれを見送る自分たちの傍らに、白い服を着た人が2人、立っているのにかれらは気附いた。イエスは天に行ったのと同じ有り様で再び来る、とその人たちはいった。

 使1:12-26〈マティアの選出〉
 さて。
 残された使徒たちにはまずやらなくてはならないことがあった。イスカリオテのユダが裏切り、自殺したことで生じた欠員の補充である。
 かれらはエルサレム市中で寝泊まりしている家に集まって、その件について協議した。ペトロはその場に集まっていた人々を前にして、こういった、──
 われらがかつての仲間、ユダがイエスを裏切り、逮捕の手引きをしたことは、聖霊によりダビデの口から既に告げられていたことを、忘れてはなりません。聖書に記されたダビデの言葉は実現されなくてはならなかったのです。
 諸君もご存知のように、もうイスカリオテのユダはいません。が、かれはわれらの仲間の1人であり、同じ任務を割り振られておりました。そこでわれらはかれの跡を決めなくてはなりません。「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」(使1:20/詩109:8)とあるようにです。
 新たにわれらの仲間となる人は、「ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使1:21-22)
 ──と。
 そこで人々はマティアと、バルサバとも呼ばれるヨセフの2人をユダの後任候補として推薦した。そうしてすべての人の心を知る主の心にかなった者が選ばれた。即ち、人々がくじを引いた結果、マティアが選出されたのである。かれは12人目の使徒として、ペトロたちと行動を共にした。

 所謂<ルカ文書>の後半、「使徒言行録」の開幕である。〈前夜〉でも述べたように本書は、初期教会の活動を知る上で、またキリスト教が西へ広がってゆく過程を確かめる上で、欠くべからざる第一級史料だ。一方で本書は、使徒たちの辛苦、覚悟の強さ、信心の篤さを描くドラマともいえよう。
 開幕の本章に於いて、ペトロやヨハネを初めとする使徒たちは、まだイエスを誤解しているようである。というのも、未だ聖霊による洗礼を受けざる者なりしゆえだ。使徒たちが聖霊による洗礼を受け、イエスの教えを理解し、伝道を自分たちの役目と自覚するのは、明日読む第2章以後のお話。
 イエスが昇天(召天ではなく)したのは、なにかと因縁のあるオリーブ山であるが、では使徒たちが寝泊まりに使っていたエルサレム市中の家とはいったいどこなのだろう。ヨハ20:19にて復活したイエスが使徒たちの前に現れたのと同じ家であったろうか。或いは、まだ読むのは先になるが、使12:12に出るマルコの母マリアの家か。最後の晩餐に使われた家という説もある(たしかここは、大祭司カイアファの邸の目と鼻の先ではなかったか)。
 かりにそこがどこであるにせよ、エルサレム市中であったことは疑いない。イエス処刑の記憶が人々のなかに残り、それにまつわる種々の話題が口の端に上っていたであろう時期、使徒集団、そうしてかれらに率いられている(と傍目には映る)信徒の集団が、反イエスの感情消し難き人々(ファリサイ派など)のなかで暮らしてゆくのは、どれ程危険で、不安で、窮屈なことであったろうか。
 が、早くもこの頃には11使徒を別としても100人強の信徒が、かれらと共にいた様子。また、ニコデモや心ある律法学者、アリマタヤのヨセフのように、集団に加わらずともユダヤ教イエス派に与する人たちも、エルサレムにはいたことだろう。却ってイエスの磔刑を目撃したり、復活の噂を聞き及んだりしたことで、イエスの教えを信じるようになった者が、エルサレムには増えていっていたのではないか。となれば、使徒たちにとっては生活しやすい環境に変わりつつある時期であったのかもしれない。
 たしかにイエスの教えはその死後も着実に広がり、人々の間に定着していっている。使徒たちが寝泊まりする家のことを考えても、そんな気配を仄かに感じるのだ。
 なお、新たな使徒を選ぶにあたってペトロがぶった演説のうち、ユダの自殺とかれが購入していた土地についての箇所は、本稿では特に触れなかった。流れを削ぐことをわたくしが厭うたのである。かというてまったく削除してしまうのも、なんだかなぁ、と思うので、ここに引用しておく、──
 「このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。」(使1:18-19)

 いまやソドムも同然と化したかつてのエデンにて、そこに集う人々の顔を眺めわたし、その本心、その企みを思うて嗟嘆した後、プルータスお前もか、と呟いてみる。
 人知れぬ場所で塩の柱となりたい気分。
 が、迫害や誹謗、わが身を突然襲った不幸について、下を向いて嘆いてばかりもいられない。汝、ヨブやパウロの如くとなれ。◆

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