第2043日目 〈使徒言行録第2章:〈聖霊が降る〉、〈ペトロの説教〉&〈信者の生活〉with今年も黄色いポケモンが大量繁殖中。〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第2章です。

 使2:1-13〈聖霊が降る〉
 過越祭の翌日、つまりイエスが復活した日から50日が経った。その五旬節(ペンテコステ)の日、12人の使徒たちに聖霊が降った。
 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使2:2-4)
 その頃のエルサレムには各地に離散していたユダヤ人たちが戻ってきていた。かれらは皆、信心深い人たちだった。使徒の集まる家から聞こえてきた言葉を聞いたかれらは、びっくりして、その家の前で足を停めた。というのも、自分たちの生まれ故郷の言葉つまりエルサレム市民にとっては外国語が、家のなかから聞こえてきたためである。かれらは銘々にいい合った、──
 たしかこの家の人たちはガリラヤ出身のはずだ。どうしてわれらの聞き馴染んだ言葉を、かれらが喋っているのだろう。ここにいるわれらの出身地は、西はメディア、パルティアから東はギリシア、パンフィリアに及び、南へ下ればエジプト、キレネに接するリビア地方にまで及ぶ。また、ユダヤ人のみならずローマから来た者もいれば、ユダヤ教へ改宗した異邦人もいる。クレタやアラビアから来た者だっているではないか。そんなわれらがどうして、ガリラヤ生まれの人たちが集まるこの家から、耳に馴染んだ言葉を聞くなどということがあり得るのだろう。
──と。
 一方で、なに、この家の連衆は酒を飲んで酔っ払っているだけさ、と片付けるものもいた。

 使2:14-42〈ペトロの説教〉
 わが言葉へ耳を傾けてください。家の前で足を停めて侃々諤々いい合う人たちに気附いたペトロは、外へ出てかれらに向かってそういった。イスラエルの人たちよ、これからわたしの話すことをよく聞いてください。
 ナザレ人イエスこそ神に遣わされた方でした。神はイエスに奇跡とふしぎな業と徴を行わせることで、それをあなたたちへ証明しました。
 「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(使2:23-24)
 ダビデも詩篇のなかでイエスについて歌い、讃えています。その一節にもありますが、イエスは死のなかから復活しました。あなたたちの前にいるわたしたちが、そのことの証人です。ダビデは自分の子孫から王座に就く者が出ることを、神によってあらかじめ知らされていたのです。また、それとは別の詩篇でダビデが歌ったように、イエスはいまや神の右に上げられてそこに立ち、約束されていた聖霊をわたしたちへ注いでくれました。それによってわたしたちは、あなたたちの生まれ故郷の国の言葉を話すことができたのです。
 あなたたちはあろう事かイエスを十字架に掛けて、殺しました。が、神はそのイエスを主とし、メシアともしたのです。あなたたちはこのことをはっきりと知らなくてはなりません。なぜならそれがあなたたちの罪であり、犯した罪は悔い改めて立ち返る必要があるからです。
 ──そうペトロは説教した。
 すると聴衆はペトロに、ではわれらはどうしたらいいのでしょうか、と訊ねた。
 ペトロは答えて曰く、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使2:38-39)
 ペトロは他にもいろいろ話した。力強く証しもした。そうして多くの人たちがペトロの説教に回心し、洗礼を受けたのである。

 使2:43-47〈信者の生活〉
 洗礼を受けて信者となった人々は一つとなり、一個の共同体を形成した。
 かれらはすべての所有物を共有とし、必要に応じて分配した。毎日心を一つにして神殿へ参詣して祈りをささげ、一つ家に集まってパンを分け合い、喜びと真心を以て食事を共にした。かれらは神を賛美した。
 為に民衆全体はかれらに好意を持った。
 主は日毎に救われる人々を仲間に加えて、一つにした。

 罪を直視してこれを受け入れ、悔い改めて洗礼を受け、罪の赦しを得なさい。そうすればあなたたちは聖霊を受けられます。──これが本章に於ける使徒ペトロの説教の主旨である。
 イエスに較べると、ペトロの説教は論旨が明快である。
 イエスの説教はともすれば仄めかしやボカシを援用し、比喩と暗示の衣をまといがちなものだった。そう記憶する。それだけに顧みれば、あのときイエスはこのことを伝えようとしていたのか、と合点がゆくケースも多かった。
 それに対してペトロの説教はストレートだ。イエス同様に旧約聖書からの引用は多いが、語られる内容は豊かで、言葉も曖昧なところがなく、丁寧だ。時代も空間も隔てて生きているわたくしのような者──イエス・キリストの教えとは無縁で、キリスト教の信仰なぞ一欠片も持ち合わせていないわたくしのような者にさえ、ペトロの説教はわかりやすい。肺腑にストン、と落ちてくる。21世紀の人間が読んでもこうなのだから、1世紀中葉のエルサレムに在ってペトロの謦咳に触れた<信心深いユダヤ人>たちには、尚更だったのではないか。
 弟子による説教のわかりやすさ。それはペトロにのみ留まる話ではなく、後のパウロにも当てはまる事柄であるが、残念ながら読書はまだそこに至っていないので、現時点では、わたくしはそのように推測する、というレヴェルに留めようと思う。

 本日の旧約聖書は使2:17-21とヨエ3(全)、使2:25-28と詩16:8-11,使2:30と詩132:11,使2:31と詩16:10,使2:34-35と詩110:1。



 昨年に続いて今年もMM21地区に黄色いポケモン、ピカチュウが出現した。しかも、その数、その繁殖地、調査すれば前年比から約1.5倍となる(独自調査に基づく)。
 単体で見れば可愛らしく、年甲斐もなく鼻の下を伸ばしてしまうのだけれど、これが視線の向く先向く先すべてに存在していて、どこもかしこもあの黄色いポケモンだらけ、となれば、むくつけき思いも湧いてくるというものだ。最早「かわいい」という段階は疾うに通り越して、いまや腹立たしさに負けぬよう葛藤中なのである……。
 たぶん、ピカチュウへのアンビバレンツは真夏の太陽、真夏の暑っ苦しさが呼び起こしているのかもしれない。これが冬や秋なら、ここまでの感情を抱きはしなかったであろうか。愛憎というにこれ程相応しいシチュエーションもあるまい。
 この群れなすピカチュウたちに申しあげたいことがあるとすればただ1つ──それだけ頭数がいるなら発電してくれ。日本の電力事情も改善されるに相違ない。◆

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。