第2044日目 〈使徒言行録第3章:〈ペトロ、足の不自由な人をいやす〉、〈ペトロ、神殿で説教する〉with葉室麟『恋しぐれ』を読み始めました、大好きなあの人が登場するゆえに。〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第3章です。

 使3:1-10〈ペトロ、足の不自由な人をいやす〉
 午後3時の祈りのため、神殿へ上ろうとしているペトロとヨハネの前に、生まれつき足が不自由な40歳過ぎの男が運ばれてきた。男がペトロとヨハネに施しを乞うた。ペトロはいった、わたしを見なさい、と。続けて、──
 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい。」(使3:6)
 すると男の足は丈夫になり、喜びのうちに立ちあがり、神を賛美して回った。そうしてペトロとヨハネと一緒に神殿の境内に上がった。
 この男の足が不自由であったのを知っている人々は、かれが自分たちと同じように立ち、歩いているのを見て、われを忘れる程に驚いた。

 使3:11-26〈ペトロ、神殿で説教する〉
 かれら3人は神殿の境内に上がった。居合わせた人々は、ペトロ、ヨハネと一緒にいる男を見て、わが目を疑う程に驚いた。そうして人々は、3人がいる<ソロモンの回廊>に集まってきた。
 ペトロは人々を前にして、いった、──
 なぜ驚くのです、なぜ見るのです。わたしたちがこの人を、自分の信心や力によって癒やしたなどと、なぜ思うのですか。否。否でありますよ、皆さん。
 「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」(使3:16)
 あなたたちは先祖の神によって栄光を与えられたイエスを、事もあろうに十字架へ掛けて殺しました。が、神はイエスを死のなかから復活させました。わたしたちはその証人です。
 あなたたちがイエスを殺したのは、指導者同様に無知であったためであるのを、わたしたちは知っています。これは、神が預言者たちを通して予告していたメシアの苦しみの実現なのです。
 あなたたちは、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい。」(使3:19)
 モーセやサムエルを始めとする聖なる預言者たちは皆、今この時について告げていたのです。就中モーセは律法のなかで述べております。あなた方のために立てられた預言者の声に耳を傾けよ、かれの語ることに聞き従え、耳を傾けぬ者は民のなかから滅ぼされる、と。
 よろしいですか、あなたたちは預言者の子孫であり、神があなたたちの先祖と結んだ契約の子なのです。神はアブラハムに、地上のすべての民族はあなたから生まれる者によって祝福を与えられる、といいました。ゆえに、──
 「神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」(使3:26)

 神殿がヘロデ大王の時代に修復、増築されたことは、以前に述べた。
 民衆がペトロの説教を聞いた<ソロモンの回廊>は、異邦人の庭、と呼ばれる外苑の東側にある柱廊である。ヘロデ時代に増築された部分の一つだ。
 午後3時の祈りとは、朝夕2回あるいけにえ奉献を指す。この箇所、ギリシア語では「第9の時刻」とある由。

 本日の旧約聖書は使3:13と出3:6及び15、使3:22と申18:5、使3:23aと申18:19、使3:23bとレビ23:29、使3:25と創22:18及び26:4。



 ちかごろ、再び時代小説、歴史小説を読むようになりました。きっかけとなったのは、葉室麟『恋しぐれ』(文春文庫)。与謝蕪村の老いらくの恋、というのがキャッチ・コピーだが、わたくしは蕪村も好きだがそれ以上に上田秋成が好きだ。本書にはその秋成が脇役で登場する。そこに惹かれて、つい購入してしまったのである。
 わたくしと時代小説のかかわりは後日の話のネタとするとして、たぶんこのジャンルに手を伸ばすのは約12年ぶりではないかな。ここまではっきりと申せるのは或る理由があってのことだが、ッここではその理由について述べるつもりはない。記憶がたしかなら、最後に読んだのは山本一力の短編集『創龍』(文春文庫)であったはずだ。『あかね雲』などからさかのぼって、デビュー作を収めたこの短編集に至ったのである。閑話休題。
 葉室麟を読むのはこれが初めてだ。時代小説、歴史小説を読むというてもまったくの絵空事には興味なく、実在の人物や出来事を素材にした作品を好む。特に、文芸に携わった人が登場する作品が、好きだ。平積みされていた『恋しぐれ』に出会ったのは、通勤で使うJRの駅の改札の外にある書店なのだけれど、短い立ち読みで、これは読んでみたい、と思うた。有り体にいえば、一目惚れしてしまったのである。理由は、偶さか開いたページに秋成が恰幅のよい体躯を揺らしてその狷介っぷりを発揮し、蕪村の供の者をすっかり小さくさせてしまう場面であったからだ。
 粛々と現在読み進めている最中で、到底感想などは認められないのだけれど、書店の棚の前で葉室麟の著作(専ら文庫)を手にしているうちに、この人が文芸に取材した小説を目立って手掛けていることに気が付いた──むろん、これは確率の話であり、わたくしがタイトルに魅せられて手にした文庫の5割強が、文芸に取材した小説であったに過ぎぬ──。『恋しぐれ』をまだ読み終えていないのに、『乾山晩愁』と『実朝の首』(共に角川文庫)、『霖雨』(PHP文芸文庫)、随筆集『柚子は九年で』(文春文庫)をTSUTAYAで買ってきた。面白い小説を書く人を見附けたら、1冊を読み終えずとも著作を買いこむのは自然なことではないだろうか。わたくしは斯く主張する、弁解のように。
 ドストエフスキー『二重人格』のあまりのつまらなさのあとだけに、尚更この小説の面白さが際立つ。通勤中のみでなく、原稿書きの合間に、就寝の少し前の時間に、2,3ページでも読む小説があるなんて、久しく体験していないことなのだ。さすがに「使徒言行録」を読み終える前に感想は書けるだろうけれど、過ぎたる熱愛ぶりに冷静な文章が書けるか、いまから不安ではある。えへ。◆

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