第2048日目 〈使徒言行録第7章:〈ステファノの説教〉&〈ステファノの殉教〉with秋の虫の声すなる。〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第7章です。

 使7:1-53〈ステファノの説教〉
 大祭司が偽証者たちの証言を承けて、事実か、と質したので、ステファノは答えた。曰く、──
 わが父アブラハムはメソポタミアにいたとき、神の言葉を聞きました。そこでかれはカルデア人の土地を出て、神が示す土地ハランへ行ったのです。その後アブラハムはハランから、いまわれらがいる土地、つまり“乳と蜜の流れる地”カナンへ移されました。アブラハムは無財で、妻はあっても子供はいなかったのに、神はこの土地をかれの子孫に継がせる、と約束しました。その折、神が語った言葉とはこうです、──
 アブラハムの子孫は外国へ移住して、そこで400年の間、奴隷となって虐げられる。かれらを使う国民はわたしが裁く。かれらはその国から脱出してカナンへ帰還し、いまあるこの神殿でわたしを礼拝するようになる。
 やがてアブラハムにはイサクが生まれ、イサクにはヤコブが生まれ、ヤコブには12部族の長(族長)となる子らが生まれました。
 この族長たちはヨセフにとって兄弟だったのですが、かれらに嫌われて命まで狙われたのを発端として、イシュマエル人の商人によってエジプトへ連れてゆかれ、その地で奴隷として売られたのです。が、ヨセフはエジプトの宰相の地位にまで上り詰め、やがてかの地で兄弟や年老いた父と再会して暮らしたのです。エジプトでイスラエル人の数は増えました。が、エジプトに於けるイスラエル人の幸福も長くは続きませんでした。やがて時代が変わり、ヨセフのことを知らないファラオが国を治めるようになったからです。イスラエル人は奴隷として酷使され、遂にはその数の多いことを恐れられるようになりました。乳飲み子はことごとく親の手から取りあげられ、殺されてゆきます。
 モーセが生まれたのは、そんな時代でした。命を守るために生後3ヶ月で父母に捨てられたモーセは、エジプトの王女に拾われて、彼女の息子として最高の教育と礼儀作法を教授され、ファラオの側近として動くようになりました。それから或ることがきっかけとなってかれはエジプトを離れ、遠くミディアンの地へ逃れなくてはならなくなったのですが、その頃のことでした、神の顕現に接してイスラエルを導いてカナン帰還を果たす役目を与えられたのは。
 かれは兄弟アロンと共にファラオに抗い、神はエジプトに10の災いをもたらしました。そうしてモーセは神なる主がエジプト人の家の前を過ぎ越した夜、同胞を導いてエジプトを出て、シナイ山で十戒を授かりました(そのためモーセが不在の間、人々は金の雄牛の像を造ってこれにいけにえをささげ、礼拝する、という愚かなことをしでかしたわけですが)。荒れ野で40年を過ごしたイスラエルはモーセの後継者ヨシュアに率いられて、神なる主が先祖に約束した嗣業の地カナンへ入りました。
 神の幕屋はヨシュアの号令の下カナンに運びこまれ、ダビデの時代を経て、ソロモン王が築いた神殿に安置されました。「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものには、お住みになりません。」(使7:48)預言者イザヤもその旨述べております。
 さて、皆さん。心と耳に割礼を受けていないあなたたちは、いつだって聖霊に逆らっているのです。あなたたちの先祖がそうだったように、あなたたちも聖霊に逆らっているのです。あなたたちの先祖は正しい人の訪れを預言した人々を殺しました。そうして今度はあなたたちです。あなたたちは訪れた正しい人を裏切り、殺した。主の天使を通して律法を授けられていたはずなのに、あなたたちはそれを守ろうとしなかったのです。
──と、ステファノは語った。

 使7:54-8:1a〈ステファノの殉教〉
 これを聞いた人々はステファノ殺害の意思を固めた。
 そのとき、ステファノは聖霊に満たされ、天に神の栄光と神の右に立つイエスを見ていた。
 人々はかれに襲いかかり、盛んに石を投げつけた。
 主イエスよ、わが霊を受け取ってください。石つぶてを浴びながら、ステファノはそういった。主よ、この人たちに罪を負わせないでください。
 そうしてステファノは絶命して、永の眠りに就いた。
 ステファノ殉教の場面に立ち合い、かれの殺害に賛成するサウロは、この結果に満足だった。

 キリスト教最初の殉教者として記録されるステファノ。かれがどんな来歴を持つのか、その家系などを含めて詳らかにされる部分は、ほぼ皆無である。ステファノの殉教は後35乃至は36年という。サウロを筆頭とする反キリスト教(反ユダヤ教イエス派、という方がいいのか)の弾圧が組織化されたこの時代、どれだけの信者が迫害に苦しめられたことであろう。
 が、一つだけ確かなのはステファノの一件があるまで、イエスの教え、使徒たちの教えに殉じて死んでいったキリスト者はいなかったらしいことだ。
 使8:3ではサウロはまだ教会を荒らし、信者を捕まえては牢に送るが精々の所業しかしていない。しかし、時を経て様々な手段による迫害に馴れてしまった、或いは神経が麻痺してしまったのか、使9:1では「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」いる始末だ。このあと、「使徒言行録」はサウロの回心を報告するのだが、この一気呵成ぶりはいったいなんだろう。サウロをここまで突っ走らせたものは、いったいなんだったのだろう。なんだかやんちゃ坊主の行状記でも読まされている気分になってくるな。
 最初の殉教者ということでステファノは悼まれ、語られ、讃えられる。毎年8月3日と12月26日はステファノ氏の記憶日だという。<わが神>スティーヴン・キングや好きな指揮者の1人イシュトヴァーン・ケルテスのファースト・ネームは、氏に由来するのだそう。様々な形、様々な想いで受け取られるステファノの殉教だが、どうもわたくしには「最初の」というステータス以外に感じるところは特にない。むしろサウロの回心を促す前奏曲として、ステファノ殉教の意義を遥かに重く受け止める。これも信仰なき者の不埒な感慨であろう。
 ──ところで。
 ステファノによるイスラエル民族史・前半の祖述は中途半端な気がしてならぬだが、どうだろうか。民族史を通してメシアの降臨を期す目的があるのなら、ダビデ−ソロモン以後即ち王国分裂と滅亡、捕囚と帰還、神殿再建をも語るべきと思うのだ。説教という名の弁明に費やす時間が足りなかったのか、単に面倒臭くなってきたのか、定かでないが、唐突にイエス処刑の責任の所在を問い、尋問側の糾弾へ論点を切り替えるのは、少々話が飛躍してはいまいか。ステファノは説教は上手だったかもしれないけれど、論議については落第点というてよいのではあるまいか。そう思えてならぬのだが、如何なものであろう。
 個人的には最後の一段落だけで済ませても構わないように、原稿を書きながら思うたけれど、そうすると今度は紙幅の関係でさ。うん、いろいろあるんだよ。

 民族史について「創世記」から「歴代誌」までの各書を繙かれることに期待する(勿論、「ルツ記」もね)。従って本章にて引用された箇所についてのみ、恒例の註釈を付す。
 本日の旧約聖書は使7:42とアモ5:25-27、使7:49-50とイザ66:1-2。



 蝉の声を今年はあまり聞かなかったように思います。そんなことを倩思いながらの帰り道、早くも秋の虫の声が庭から、神社の茂みから、聞こえてきます。
 なんだか今年は季節の移り変わりが早い気がしませんか。かと思えば、それに馴染んだ頃に季節はまた逆行する。そんな行ったり来たりな今年の夏、そうして初秋。
 嗚呼、寂寥。◆

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