第2049日目 〈使徒言行録第8章:〈エルサレムの教会に対する迫害〉、〈サマリアで福音が告げ知らされる〉他withモノクロ写真って好きだな。〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第8章です。

 使8:1b-3〈エルサレムの教会に対する迫害〉
 ステファノ殉教の日、エルサレムの教会も大迫害を受け、使徒たちはユダヤとサマリアの各地に逃れた。ステファノの遺体は信仰深い人々の手によって丁重に埋葬された。
 一方でサウロは各地の教会へ押し入っては荒らし、キリスト者を見附けては牢獄送りにしていた。

 使8:4-25〈サマリアで福音が告げ知らされる〉
 使徒たちは散った先でイエス・キリストの福音を宣べ伝えた。また、使徒でなくても福音の宣教を行うキリスト者も多くいたので、かれらも使徒同様に人々へ教えを宣べ伝えた。
 たとえばフィリポ。かれは使徒ではなく福音宣教者であるが、サマリアへ下って民衆相手にキリストを宣べ伝えた。汚れた霊に取り憑かれた人を助け、体の不自由な人を癒やしたりもした。
 ところで件の町には昔から魔術師シモンが住んでいた。人々からその魔術ゆえに注目され、偉大な者と持て囃されていたが、フィリポが来て状況は一変した。老若男女いずれも皆、フィリポが語る神の国とイエス・キリストの名による福音を信じ、洗礼を受けたからである。そこでシモン自身も洗礼を受け、フィリポが行う数々の奇跡や徴を目の当たりにして、驚いた。
 さて。エルサレムに残っていた或いは戻ってきていた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れた、と聞くと、さっそくペトロとヨハネを差し向けた。2人は人々に聖霊が与えられるように祈った。授洗は済んでいたと雖もまだ誰の上にも聖霊は降っていなかったからである。
 魔術師シモンは、使徒たちが人々の頭の上に手を置いて祈り、すると“霊”が与えられるのを見て、使徒たちの前にお金を積んで、自分にもあなた方と同じような、人々の頭の上に手を置いただけで“霊”が授けられるようにしてください、と頼んだ。
 ペトロはいった。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。」(使8:20-21)シモンよ、自分の罪を悔い、祈れ。赦されるかもしれない。

 使8:26-40〈フィリポとエチオピアの高官〉
 フィリポへ話を戻そう。主の天使からガザへ下る道を行くよう命じられたフィリポはそれに従い、エルサレムからエチオピアへ下るかの地の高官の乗る馬車に追いついた。
 かの者は宦官で、エチオピアの女王の全財産を管理しており、折しもエルサレムへ礼拝に来ていたその帰途であった。
 フィリポが、追え、と命じられて合流したとき、宦官は預言者イザヤの書物を朗読していた。その箇所は、──
 「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。/毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。/卑しめられて、その裁きも行われなかった。/だれが、その子孫について語れるだろう。/彼の命は地上から取り去られるからだ。」(使8:32-33/イザ53:7-8)
 フィリポに、その意味がわかりますか、と訊かれた宦官は、手引きしてくれる人なしではわかりません、あなたが教えてくださいますか、と頼んだ。フィリポがイザヤの言葉に即してイエスの受難と福音を説いたので、宦官にはその書物に書かれた内容がよくわかった。
 道中、水のある場所へ差しかかったので、フィリポは宦官に洗礼を施した。
 「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」(使8:39)
 その後フィリポは地中海沿岸の町アゾトを経て、各地を廻りながらカイサリアまで北上していった。

 サマリア人はユダヤ人を受け入れない。両者は過去の歴史の遺恨ゆえに仲が悪い。今日の東アジアのと或る国々を連想させられるが、サマリア人とユダヤ人の仲違い、排他性はルカ9:53とヨハ4:9にもある。原因というべきは旧約聖書の歴史書にもあるけれど、殊に王下17:34が参考となろう。
 そのサマリアの地でユダヤ人イエス・キリストの福音、神の言葉が受け入れられた。これを聞いてエルサレム教会はどのように思うたことであろう。先に立った感情は安堵か、疑いか。ただおそらく間違いないだろうと思われるのは、サマリアからもたらされたこの善き報せを承けて、エルサレム教会は、後にペトロが口にする述懐(「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」使10:34-35)と同質の感慨を抱いただろうことだ。──神の前に万人は平等。これを最初に体現したのは、もしかするとサマリアの人々だったかもしれない。
 本章で大活躍するフィリポ。パウロが表舞台に立つ以前の「使徒言行録」に於いてペトロに次いで活動の記録が残されているのは、たぶんこのフィリポである。が、間違えてはならぬ。ここに登場するフィリポはガリラヤ出身の12使徒の1人ではなく、使6:5にて選出されたギリシア語を話すユダヤ人の世話役フィリポなのだ。かれは混乱を避けるため、福音宣教師(者)と称され、使徒たちによってエルサレム教会の執事に任命されている程の人物である。

 本日の旧約聖書は使8:32-33とイザ53:7-8。



 ちかごろ写真をモノクロで撮ることが多い。専らiPhone5での撮影だけれど、撮った写真をiMacやMBAで見てみると、なんともいえない味わいを醸している。ノスタルジックなんて言葉で誤魔化す気はないが、自分の好みの<絵>に仕上がるのだな。
 気分の赴くままに、大して考えもせずにカシャカシャ撮っているだけだから、これを趣味というのもおこがましいけれど、やはり写真の腕は相応に確かなものにしておきたいな、と思う。西日本への旅行の予定が具体的になってきたいまは尚更、そう思うのである。
 モノクロで寺社や仏像を、海ある光景を撮影したら、どんな風に写るのだろう。カラーと比較して、どれだけの印象の違い(落差?)があるのだろう。今度の旅行はそれを確認するための、格好の体験になりそうだ。◆

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