第2051日目 〈使徒言行録第9章1/2:〈サウロの回心〉、〈サウロ、ダマスコで福音を告げ知らせる〉他with神父/牧師のPodcastは、あまり聞きたいものではないなぁ。〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第9章1/2です。

 使9:1-19a〈サウロの回心〉
 サウロははりきっていた。いまも主の弟子たちを捕らえて殺そうと企み、大祭司に頼んでダマスコの諸会堂宛の手紙を書いてもらっている。主の道に従う者は誰彼問わず捕縛してエルサレムへ連行する許可が、その手紙には認められていた。
 そうしてサウロは何人か同伴者を従えて、エルサレムからダマスコへ向かった。一行がダマスコの近くまで来たとき、突然、天に光が満ちてサウロを照らした。かれは光のなかから、どうしてわたしを迫害するのか、わたしはイエスである、このまま町へ入ってあなたの為すべきことを知れ、という声を聞いた。光が退いたとき、サウロは目が見えなくなっていた。その状態でかれは、飲まず食わずで3日を過ごした。
 ところでこのダマスコには、アナニアという信者がいた。そのかれに主イエスが語りかけた。サウロの許へ行き、アナニアという人が来て目が見えるようにしてくれる、というサウロが見た幻を実現させるよう指示した。サウロは信者の迫害者である。当然抗うアナニアに、イエスがいった、──
 「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使9:15-16)
 渋々アナニアは出掛けて、サウロを見附け、頭に手を置いた。あなたの目が再び見えるようになるように、あなたが聖霊で満たされるように、主イエスがわたしをここへ遣わしたのです。
 すると、おお、たちまち目から鱗が落ちたみたいにサウロの目は再び見えるようになった。そうしてかれは洗礼を受け、3日ぶりに食事を摂って元気を取り戻した。

 使9:19b-22〈サウロ、ダマスコで福音を告げ知らせる〉
 いまのサウロは最早昨日までのサウロではない。いまやかれは迫害者ではなく、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者である。
 が、かれの回心を人々は容易に信じられなかった。当たり前である。
 「しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。」(使9:22)

 使9:23-25〈サウロ、命をねらう者たちの手から逃れる〉
 かなりの日数が経過した。ダマスコの地で主の福音を説き続けたサウロには、何人もの弟子ができた。一方でこれまでの反動か、何人かのユダヤ人がサウロ殺害を謀った。
 事前にそれを知ったサウロは弟子たちの手引きにより、或る夜、ダマスコの城壁を籠で降りて脱出。エルサレムへ向かった。

 使9:26-31〈サウロ、エルサレムで使徒たちと会う〉
 福音宣教者となってエルサレムへ戻ってきたサウロは、その足で教会に集う使徒たちへ会いに行った。これまでの行状が行状だけに、使徒たちもサウロの回心をすぐには信じようとしない。当たり前である。
 が、キプロス島出身のバルナバは、サウロがダマスコへ行く途中で主イエスに会い、その名によって人々へ福音を宣べ伝え、ダマスコの人々をイエス・キリストの教えに導いたことを、使徒たちに説明した。その結果、「サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」(使9:28)
 サウロはギリシア語を話すユダヤ人とも議論した。が、相手の狙いはサウロ殺害にあった。それを知った兄弟たち(キリスト者)はサウロをカイサリア経由でキリキア州タルソスへ出発させた。タルソスはサウロの出身地である。
 「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」(使9:31)

 第9章前半<サウロの回心>編である。
 新約聖書を源とする慣用句は幾つもあるが、日常的に使う頻度としては結構高いであろう「目からウロコ」は本章を出典とする。サウロの回心なくしてこの言葉は存在しなかったかもしれないわけだが、そのかれの回心は後34年頃の出来事とされる。「使徒言行録」やパウロ書簡、その他の資料に基づくと、後34年頃の出来事であろう、と結論附けられるらしい。
 サウロの出身地は、小アジアはキリキア州のタルソスである。使18:3に拠ればかれの職業はテント職人であった。コリントでの伝道の際泊まった家の者が同業だった旨記述がある。本ブログの行程が順調ならば、10日後にわれらは改めてそれを知ることになるだろう。
 かれの最初の宣教地がダマスコであったことは象徴的だと思う。ダマスコはシリアの地方都市だけれども、ユダヤからすれば異邦の地である。そうしてサウロ/パウロの宣教はその数次にわたる伝道旅行の記録が示すように、専ら異邦人に対して行われるのだ。ローマ帝国領内に張り巡らされた交通網の恩恵を受けているのは勿論だが、異邦人である自分の回心を語り、その姿を見てもらうことで非ユダヤ人の改宗を促すことに自分の仕事を見出したのだろう。異邦人への宣教、異邦人の改宗を促す役を担う者として、かれ以上に適任の人物はいない。事実、サウロ/パウロは殉教のときまでその役割を、倦まず弛まずこなして果たした。
 第9章前半<サウロの回心>編は伝道の原点を記録した箇所でもあることを、忘れないようにしよう。



 Podcastで聴くのはドラマと朗読が中心であるのは、昨年あたりに本ブログでもお伝えしました。そこに昨年末から教会と仏教、殊に真言宗の番組が加わりました。
 高野山の住職による説法、法話はずいぶんと聞きやすくてわかりやすく、心の奥まですんなりと入ってくるけれど、教会の礼拝説教はそれに較べて聴くに堪えないものへ当たることが、とても多いのですよね。話すスピードが速い、滑舌悪い、言葉と言葉の間に「間」がない、大げさで耳障りな抑揚に頼り過ぎ、エトセトラエトセトラ。
 話し手は神父や牧師なのですが、この人たちがコールセンターに転職したら評価は最低ランクとなることは疑いない。喋ることを仕事にしていると、どうしてもその辺には点が厳しくなってしまう。
 清少納言だったかな、僧はイケメンであるのが良い、その上説法が上手ければ人気は赤丸急上昇間違いなし、というていたのは。彼女の観察は正しいね。
 Podcastで聴く教会の礼拝説教で、内容はともかく語り口調の良きがためにそのまま最期まで聴き入ってしまう番組は、残念ながら片手の指で数えても余るぐらいしかない。それがどの番組なのか、本ブログでは言明を避けるが、いやぁ、この手の番組は評価が難しいね。
 それではこのあとみくらさんさんか、「高野山の時間」を聴いて参ります。来年の春頃には真言宗総本山、和歌山県の高野山に詣でたいものですねぇ。◆

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