第2053日目 〈使徒言行録第10章:〈コルネリウス、カイサリアで幻を見る〉、〈異邦人も洗礼を受ける〉他with怪談と現実、シンクロ率100%はお断り。〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第10章です。

 使10:1−8〈コルネリウス、カイサリアで幻を見る〉
 地中海沿岸の都市カイサリアはローマ帝国属州ユダヤのいわば首都である。ローマ総督の館があり、ローマ軍のなかでもローマ市民によってのみ構成されるイタリア隊が駐留していた。
 そのイタリア隊の隊長の名はコルネリウス。かれは信仰心篤く、絶えず神に祈り、人々に施しを行い、家族共々神を畏れる人だった。
 或る日、午後3時の祈りをしているコルネリウスに神の天使の言葉が臨んだ。神の天使は、ヤッファにいる使徒ペトロの許へ使いを送り、あなたのところに招きなさい、といった。コルネリウスは召使い2人と兵士1人をヤッファに派遣した。

 使10:9−33〈ペトロ、ヤッファで幻を見る〉
 カイサリアからの使者がヤッファのすぐ近くまで来ていた頃、ペトロは滞在中の革なめし職人シモンの家の屋上にいた。昼12時頃である。ペトロは空腹を覚えながら空を見あげていた。
 すると天の一角が開き、なにか大きな箱のようなものが、四隅を吊られて降りてきた。そのなかには全地のあらゆる獣、這うもの、空の鳥が詰め合わされている。
 どこかからペトロへ呼びかける声がした。これを屠って食べよ、とその声はいった。ペトロは、とんでもない、と頭を振った。(洗礼を受けてこの方)清くなかったり汚れたものは食べたことがありません。声が、神が清めたものを清くないなどといってはならない、といった。ペトロと声の押し問答は3度されて、結局ペトロが拒んだので、箱は天へ引き上げられて、天は閉ざされたのだった。
 いまのはどういうことだったのだろう、と考えに耽るペトロのところへ、カイサリアからの使者が到着して、来意を告げた。かれらはペトロに、聖なる天使がコルネリウスにあなたを招いて話を聞くようにと告げたのです、といった。
 そうしてペトロは使者たちに連れられて、カイサリアに行った。そこでかれはコルネリウスと会い、こういった、──
 「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。」(使10:28−29)
 それからペトロは招待の理由を訊ね、コルネリウスは事の次第を伝えた。「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」(使10:33)

 使10:34−43〈ペトロ、コルネリウスの家で福音を告げる〉
 コルネリウスの言葉に感じ入ってペトロはいった。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」(使10:34−35)
 そうしてペトロは生前のイエスが行った奇跡と受難、復活について教えた。しかし復活したイエスを目撃して証人となったのは、あらかじめ選ばれて一緒に食事をしたわれらだけです、と補った。続けてペトロの曰く、──
 「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」(使10:42−43)

 使10:44−48〈異邦人も洗礼を受ける〉
 ペトロがこれらのことを話している最中、聞いている者たちの上に聖霊が降った。既に割礼済みでペトロと共に来た信者たちは、聖霊の賜物が異邦人の上に注がれ、異邦人が異言を話したり、神を讃える光景を目にして、すっかり驚いてしまった。
 かれらの驚く様に気附いてペトロはいった。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか。」(使10:47)
 それからペトロはコルネリウスたちに、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい、と命じた。
 コルネリウスたちはペトロに、もっと滞在してくれるように、と願った。

 「使徒言行録」の真骨頂ここにあり、というところか。
 神を信じながらも聖霊を受けておらず、割礼もしてないローマ人コルネリウスの如きは既にシリア・パレスティナを中心に多く存在していたことは明白だ。
 本章は異邦人が聖霊降臨を経験し、イエス・キリストの名によって洗礼を受けることで信者となったことを最初に教えてくれる箇所だ。形式を重んじる教会は割礼を受けていない点を問題視するのだが、ペトロは問うべきは割礼を済ませているか否かではなく、神なる主を信じ、イエス・キリストの教えに帰依するかどうかという点にこそある旨答えて論破している(使11:2-3,15-17)。形ではなく心が重要なのだ。
 使徒たち、福音宣教師たちはこの出来事をきっかけとして、或いは突破口として、着々と異邦人の改宗に着手してゆくこととなる。
 それにしても、革なめし職人シモンの家の屋上でお腹を空かせながら空を見あげているペトロの姿は、想像すると思わず微笑を禁じ得ません。なんだかとってもかわいらしくありませんか?



 今日は涼しい一日でしたね。北側の窓を開けていると、寒いと感じるぐらいの風が部屋に吹きこんでくる程。冷房に頼ることなく過ごしたなんて久しぶりです。
 最前まで泉鏡花の怪談小品を読んで過ごしていたのですが、このときちょっと背筋がひやり、とすることを経験しました。いろいろ読んできて、最期のお楽しみにとっておいた、高校時代から大好きな一編「怪談女の輪」を読み始めて少し経った頃です。主人公が人目を避けて江戸時代の人情本を読む場面があります。突然障子や軒先に、ぱら、ぱら、という、雨粒があたるような音がしたのにびっくりしてしまう。
 この場面は活字で読むよりも、いつだったか本ブログでも紹介したオーディオ・ブックで聴く方がよほど薄ら寒い思いをするのだけれど、わたくしも「怪談女の輪」の読書中、主人公がかの雨音のような音を聞く箇所で、まったく同じような、雨粒が庇や壁に、ばら、ばらっ、とあたるのに似た音を聞いて、背中は伸び、椅子からお尻が浮いたのでした。いや、冗談じゃありません。
 慌てて窓の外を見ても、首を窓から出して壁を見てみても、濡れた形跡はありませんでした。虫の音が聞こえるばかり。窓より高い木も近くにはなく、誰かがいたずらでなにかを投げつけたわけでもなさそうです。
 あれはいったいなんだったのでしょう。読んでいた小説とこんな形でシンクロするのだけは、どうかこれを限りに願い下げとしたいものであります。ちゃお!◆

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