第2064日目 〈使徒言行録第20章:〈パウロ、マケドニア州とギリシアに行く〉、〈エフェソの長老たちに別れを告げる〉他withご飯の季節がやって来た!!〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第20章です。

 使20:1-6〈パウロ、マケドニア州とギリシアに行く〉
 アルテミス神殿にまつわる騒動が鎮まると、パウロはエフェソの弟子を集めて励ました後に別れて、小アジアからマケドニア州へ渡った。
 かれは遠近の町を経巡ってかの地の信者たちを言葉を尽くして励まし、教え、ギリシアを回り、3ヶ月を過ごした。パウロは当初、ギリシアの港町からシリアへ帰るつもりだったが、ユダヤ人の暴動があったのでそれを諦め、マケドニア州へ戻ることにした。
 そのときパウロに同行したのは7人である。かれらは途中でわたしたちと離れて先行した。パウロはといえばマケドニア州を北西に進んでフィリピに至り、そこから小アジアはミシア州トロアスへ向かった。7人とパウロ(わたしたち)はトロアスで合流したのである。ここには7日間滞在した。

 使20:7-12〈パウロ、若者を生き返らせる〉
 週の始めの日のことである。わたしたちはパンを裂くために或る家に集まったのだが、パウロはそこで明日からの予定を延々と話し始めた。それは深更に至るまで続いたのであった。
 そうしてそれが災いしたのか、窓縁に腰掛けて聞いていた青年エウティコが眠気を催し、舟を漕ぎ始め、そのまま背中からもんどり打って落っこちて、地面に叩きつけられた。そのときわたしたちが集まっていたのは階上の部屋だったのである。エウティコは死んだ。
 が、パウロはエウティコの死体の傍らまで来ると屈みこみ、抱きかかえて、騒ぐことはない、かれはまだ生きている、というた。それから何事もなかったかのように部屋へ戻り、パンを裂いて食べ、明け方まで延々と話した。
 エウティコはといえば生き返り、知己の人々と共に自分の家に帰った。

 使20:13-16〈トロアスからミレトスまでの船旅〉
 件の7人を含めたわたしたちはパウロより先行して、トロアスから州内の町アソスへ船で向かった。一方パウロはトロアスから陸路でアソスに入った。そこで全員が揃った。
 わたしたちはそこから西へ船出した。レスボス島のミティレネで一泊し、キオス島の沖を行き、サモス島に寄港した。アジア州ミレトスの港に到着したのは、トロアスを出て4日目のことである。
 途中エフェソにも寄る予定だったがそうしなかったのは、例の騒動が再発するのを避けたかったからだ。そうしてなによりもパウロの胸には、五旬祭の頃までにはエルサレムに着いていたい、という願いがあったのである。

 使20:17-38〈エフェソの長老たちに別れを告げる〉
 ミレトスのパウロはエフェソに人を遣わし、教会の長老たちにこの地まで来てくれるよう頼んだ。集まったエフェソの教会の長老たちにパウロはいった、──
 わたしがアジア州に来た最初の日からずっと、あなたたちはわたしがどのような思いで伝道に努めてきたかをご存知です。わたしは自分を全く以て取るに足らぬ者と思い、涙を流しながら、時にはユダヤ人による数多の陰謀ゆえわが身に降りかかった試練に耐えながら、主に仕えてきました。あなた方のみでなく異邦人にも、神への悔い改めと主イエスへの信仰を力強く訴えてきたのです。
 が、いまやわたしの命運は尽きようとしています、──「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。」(使20:22-25)
 「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使20:29-32)
 あなた方の群れとあなた方自身に,どうか注意を払ってください。あなた方は聖霊によって、神が御子即ちイエスの流した血によって御自分のものとした神の教会の世話役、監督者に任命されたのですから。
 わたしはこの手で自分の生活のため、共にいる人々のために働きました。あなた方もこのようになさい。主イエスが、受けるよりも与える方が幸せである、といった意味をよく噛みしめなさい。わたしは常にこの言葉を忘れることなく働いてきたのです。
──と、パウロはいった。
 人々は皆嘆き、悲しみ、別れを惜しんだ。人々はパウロを停泊中の船まで見送った。

 わたくしは本章第18-35節のパウロの言葉を、後に読むパウロ書簡の萌芽の一と見る。この発言をもっと深化、普遍化させれば、今日われらが読むような、一つ一つの書簡に結実するのではないか。この言葉の一片一片を、かの大騒動を経験したエフェソの人々は、われらが思う以上に真摯に受け止めたことであろう。
 正直なところ、このパウロの言葉をダイジェストして、かつエッセンスを損なうことなくノートするのは、わたくしの能力では不可能に等しく、為にほぼ全文の転記となってしまったことをお許しいただきたい。いまから書簡のノートについて頭を悩ますところである……。
 ギリシアからマケドニア州へ行くパウロに同行した者として、使20:4は7人の名前を挙げる。ノートには反映させられなかったので改めてここで触れると、──
 ・ベレア出身のソパトロ
 ・テサロニケのアリスタルコとセクンド
 ・デルベのガイオ
 ・テモテ
 ・アジア州出身のティキコとトロフィモ
内、デルベのガイオとテサロニケのアリスタルコは前章にて、エフェソの町の人々によって捕縛されてしまった2人である(使19:29)。また、テモテは第2回宣教旅行の途中、キリキア州デルベに寄った際、パウロが是非とも随伴者にしたいと強く望んだ信仰篤い若者だった。かれは父がギリシア人、母が信心深いユダヤ人で、故郷一帯では非常に評判のよい人物だったという(使16:1-3他)。パウロ書簡の一、「テモテへの手紙」はかれに宛てて執筆されている。
 なお、トロアスを出航して最初の寄港地、レスボス島ミティレネは今日のミティリーンで,岡山県瀬戸内市とは姉妹都市。ギリシア時代のミティレネは島最大のポリス(都市国家)だったが、前428-7年の「ミティレネの反乱」の失敗により衰退した。文学上ではレスボス島はギリシア時代の女流詩人サッフォーが愛人と暮らした場所としても知られる。むろん、これがレスビアンの語源である。



 来月の話だ。職場の同僚たちと一緒に、大分は中津市の唐揚げが食べられるお店に行く。というよりも大分料理専門店なので、他にもいろいろ賞味はできるはずだが、まずは唐揚げ、そうして水炊き。
 できれば大分出身の上司と一緒に行きたいのだけれど……が、問題なし。別の機会に一緒に行く約束を取り付けてきた。幸せである。るんるん、なのである。わたくしにしては珍しい行動力の発揮である。えへ。
 再来月には他の同僚と連れだって美味い鰻を食べさせる店に行く(不動産会社で働いていた頃何度か行った店ではないか、と思うておるのだが、定かでない。もう忘れちゃったなぁ)。田舎で食べる鰻は非常に美味で安価で何杯でも食べられるのだが、再来月はそうもゆかないぐらいに高級な店だ。でも、鰻は鰻だ、美味であればまずは合格点。
 そうしてもうすぐ、職場恒例のランチ・ミーティング。ハンバーグが美味いらしい……早くもお腹が鳴っている。困ったものだね,プーくま?
 いやぁ、ここに来て満足のゆくような外食の予定が目白押しで、嬉しい。楽しんでご飯を一緒にできる仲間がいるのは良いことだ。
 「食べられる」ってありがたいよね……。この幸福を当たり前と思うて感謝の心を忘れてはいけない。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。