第2068日目 〈使徒言行録第24章:〈パウロ、フェリクスの前で訴えられる〉、〈パウロ、フェリクスの前で弁明する〉他with大分生まれの歴史小説家、葉室麟の作品を知ったこと。〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第24章です。

 使24:1-9〈パウロ、フェリクスの前で訴えられる〉
 パウロがカイサリアへ到着して5日後。エルサレムから大祭司アナニアと弁護士テルティロ他がやって来た。かれらの訴えを承けて総督フェリクスはパウロを召喚した。皆の前に立ったパウロを、テルティロが告発する、──
 総督閣下、この男は疫病のような男です。世界中のユダヤ人の間に<ナザレ人の分派>の教えを宣べて、あちこちで騒動を巻き起こしているのです。此奴はエルサレムの神殿をも汚したのです。閣下、これらのことについてはお調べいただければ、すぐに明るみに出ることばかりであります。
 その場に居合わせたユダヤ人は1人の例外なく、この告発に同調してテルティロの発言を支持したのだった。

 使24:10-23〈パウロ、フェリクスの前で弁明する〉
 テルティロの告発が済むと、フェリクスはパウロに話すよう促した。パウロは人々の前に立って、斯く答弁した、──
 わたしがエルサレムへ上ってこちらへ連行されてくるまでの12日間、果たして誰が、わたしが他の人と論争したり、群衆を扇動したところを見たというのでしょうか。否、であります。
 わたしは人々が<分派>と呼ぶ道の教えに従い、かつ律法や預言者の書に書かれたことを信じております。「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」(使24:15)
 「私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」(使24:16)
 エルサレムの神殿でわたしは、数人のユダヤ人と一緒に清めの儀式にあずかり、供え物をささげていました。もしわたしが訴えられるならば、告発者は一緒に清めの儀式にあずかったかれらユダヤ人でなくてはなりません。或いはここに雁首揃えて集まっているユダヤ人たちが、最高法院に出頭しているわたしの不正を見附けて告発すべきでありましょう。違いますか?
 わたしはただ、かれらのなかに立って、死者の復活のことで裁判にかけられている、と叫んだだけなのです。
──と。
 実は総督フェリクスは、パウロの説く<ナザレの人の分派>の道について詳しく知っていた。そこでかれはエルサレムから千人隊長リシアを証人喚問することを宣言し、それまでの間は百人隊長に命じてパウロを監禁した。「ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げさせないようにさせた。」(使24:23)

 使24:24-27〈パウロ、カイサリアで監禁される〉
 数日後、フェリクスは妻ドルシラを伴ってパウロの許へ足を運んだ。キリスト・イエス(ママ)の信仰について話を聞くためである。が、パウロの語る正義や節制、来たるべき裁きのことなど聞くと恐ろしくてならなくなり、後日改めて話を聞かせて欲しい、と伝え、その日はパウロを退かせた。
 その後も何度か総督はヘロデの官邸に行き、パウロと都度話し合った。パウロからお金を融通してもらう下心あってのことでもあった。
 「さて、二年たってフェリクスの後任としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。」(使24:27)

 イエスの教えは使徒たちの尽力によりユダヤ教の片隅に根附き、エルサレム教会を中心にしてバルナバやパウロのような人々によって地中海世界に広まり、いまや異邦のユダヤ人にとって驚異とも唾棄すべき者とも移るようになっていた。<ナザレ人の分派>という表現に侮蔑するような意図はあるまい。
 が、弁護士テルティロの発言に耳を傾けていると、ユダヤ教イエス派について未だ多くのユダヤ人がこれを異端と見、排斥の対象としていたか、そういったことを想像するのは容易だ。宜なるかな。割礼を否定し、律法に拠りつつ律法から離れ、最も重要な掟は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27,マコ12:29-31,マタ22:37-39 ex;申6:5,レビ19:18)であり、あまりに話が突飛で大きすぎる死者の復活、神の国の訪れなど聞かされては目の前の宣教者の正気を疑ったり、理解の困難が嵩じての反感が募ったりする等あるのは、当然の帰結とも思えるからだ。
 本章では遂に中立なる高位の者の前でキリスト者とユダヤ教原理主義者が対峙する。むろん、そこに特記すべき程の激しさや修羅場っぷりは記されていない。が、ここにはかつてパウロが宣教旅行したあちこちの町で行った説明や弁明より数段上の、パウロの覚悟が滲み出ておるように思えぬか。わたくしにはこれが、異邦人への宣教をわが仕事と定めたパウロの所信表明演説のようにさえ読める。皇帝に上訴する準備、予行演習も兼ねていることであろう。いわばリハーサルに誰しもが付き合わされているということ。されども本章に於けるパウロの弁明には清冽なものがある。
 告発と弁明が終わったあと、パウロは再び、一時的に監禁されるものの、そこには一定の自由が保証されていた。これは洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスによって拘束されていたときを思い出させる。ヨハネもパウロも外部との接触はいちおう認められており、その行動についてもとやかくいうて制限されることはなかった。現に2人は監禁中の現場から外の弟子たちに伝言を依頼したり、教会や信徒宛の手紙を書き送っているのだ。ヨハネやパウロに反対するユダヤ人も、こうした点については比較的おおらかだったのかもしれない。これはヘレニズムの寛容、ローマの流儀、というところだろうか……?
 使24:27は、2年経ってフェリクスの後任フェストゥスが着任した、と述べる。フェリクスの任期が2年であったのか、パウロの監禁から2年が経過したのか、この「2年」の定義は不明である。もしこれが任期を指すとしたら、属州ユダヤの総督がフェストゥスへ交代した理由はなんだろう。任期切れ? 病没か、殺害か? まぁ殺害であればなんらかの形で記録も残ろうから、いちばん自然な考え方は任期切れか病没であろう。とは雖も、唯一無二の真実は最早ゆめ解明されることがないのである。でも、……僕は事実を知りたいよ、ドラえもん! お願い、タイムマシン出して!! タイムパトロールに捕まったときのために、賄賂の準備もお願いね。勿論、歴史の改編などする気はない(と思う)。



 本ブログを開設してからこの方、ずっと聖書に関する本を読んでいたせいもあってか、歴史小説を読むのはとても新鮮でした。日本の古典文学を専攻していた関係から、当時は歴史小説とはいうてももっぱら文芸にまつわる実在の人物、出来事を扱った作品ばっかり読んでいたのでした。その代表格というて構わないのが、田中阿里子『藤原定家 愁艶』であったことはかつて述べた通りであります。
 久しく歴史小説から離れていた者が、どうして最近になって再びそのジャンルへ手を伸ばすようになったのか。その要因は新約聖書の読書が佳境に差し掛かろうとしており、言い換えればゴールが以前よりも具体的に、明瞭に見えてきたことと無縁ではないでしょう。本ブログがいちおうの完結を見た後はどんなジャンルを集中的に攻めようかな、偏読しようかな、と倩思うていた矢先、つまり今年6月頃、──
 わたくしは散髪のため商店街へ行った。途中の本屋で時間潰しをしていたら、アウグスティヌスの『告白』全3巻が棚に並んでいた。へえ、まさか地元の本屋でアウグスティヌスが売っているなんて、思いもしなかったなぁ。ちょっとその日はお財布に散髪代と他少額しか入れていなかったので、アウグスティヌスを買うつもりはなかったのである。が、……
 棚の裏に回ると時代小説のコーナーであった。最近はどんな作家が売れているんだろう、活躍しているんだろう。そんな好奇心から棚を見渡していたのですが、ああ、そのときわたくしを歴史小説に引き戻す作家の文庫が、表紙をこちらに見せていたのでした。新刊だったようで、何気なしに手を伸ばし、裏表紙の粗筋を読むと、そこには広瀬淡窓の名前がありました。葉室麟『霖雨』であります。
 広瀬淡窓と旭窓兄弟は現在の大分県、日田に私塾を開いて数多の門人を世に送り出し、一方で淡窓本人は漢詩人としても名を馳せた人。わたくしが広瀬淡窓の名に接して胸中に浮かんだのは、私塾の長としてのかれでは勿論なく、清冽な詩を世に遺した漢詩人としてのそれでありました。
 経歴を拝見すると、葉室麟は大分県出身で、50歳を過ぎてから作家デビューした、文芸家に材を取った作品を得意とする人らしい。デビュー作『乾山晩愁』は尾形光琳の弟乾山を主人公とした作品であった。
 小説の題材になることなどめったにない私塾の長がどのように描かれているのか、という興味から発展して、わたくしは与謝蕪村を主人公とした『恋しぐれ』を最初に読み、そのあとで『霖雨』を読み、つい先日右大臣実朝の首を巡る忠信と陰謀の物語『実朝の首』を読んだ。どれも読後感は鮮やかで清々しく、とても良いものを読んだ、という満足感でいっぱいでありました。
 いまはちょっと箸休めに随筆集を読んでいるけれど、これが読了したら次は、かねてより目星を付けていた『いのちなりけり』と『花や散るらん』である。そのあと……? さぁ、わかりませんなぁ。
 今暫くは聖書やキリスト教、そこからつながってゆく歴史や文化・習俗その他諸々の本を読むのに手一杯で、他ジャンルに手を伸ばしても小休止の意味しかないのだが、これが済んだらじっくりと腰を据えてかつてのように歴史小説を(それだけではないけれど)読み耽りたいものだなぁ、と夢想している。
 さて、「使徒言行録」が終わればパウロ書簡、公同書簡、そうして黙示録である。その先に続く道と傍らの美しき風景に目をやりながら過ごす日々の訪れを、夢想しつつ楽しみに待つとしよう。いまは胸の奥に宥め賺して押しこめておく。◆

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