第2077日目 〈ローマの信徒への手紙第3章:〈ユダヤ人と律法〉2/2、〈正しい者は一人もいない〉&〈信仰による義〉withネタはあるけど原稿はない。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第3章です。

 ロマ3:1-8〈ユダヤ人と律法〉2/2
 ユダヤ人は神の言葉を委ねられました。かりにすべてのユダヤ人が偽り者だったとしても、神は真実な方であるべきです。詩篇の一節にもあるように、人は神の言葉を述べるときに正しいとされ、裁きを受けるときに勝利を得られるからであります。
 が、われらの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうでしょう。人間の論法に従っていえば、怒れる神は正しくないのか。否、怒れる神でなくして如何に世を裁くことができるでしょうか。
 また、わたしが偽ることで神の真実が明らかになり、神の栄光になるのであれば、どうしてわたしはなお罪人として裁かれねばならぬのでしょう。もしそれが通用するなら、善が生じるために悪を為そう、という考えが認められなくてはなりません。違いますか。
 われらのこうした主張を陰に陽に中傷する人々がいますが、連衆が罰を受けるのは至極当然のことといわねばなりません。

 ロマ3:9-20〈正しい者は一人もいない〉
 これらを踏まえた上で、改めて問い掛けましょう。われらの優れている点はどのような点であるのか、ということを。全く、1つとしてそんなものはありません。ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にいるからです。
 正しい者は1人もいないし、善を行う者も1人としていない。かれらは平和の道を知らないし、その目に神への畏れは宿っていない。「彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。/口は、呪いと苦味で満ち、/足は血を流すのに速く、/ その道には破壊と悲惨がある。/彼らは平和の道を知らない。」(ロマ3:13-17)
 律法に記載されている事柄は、律法の下にいる人々に向けられています。偏にそれは人々の口がふさがれて神の裁きに服するようになるためです。律法を実行するだけでは義とされません。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ロマ3:20)

 ロマ3:21-31〈信仰による義〉
 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(ロマ3:21-22)
 人は皆、キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより無償で、見返りを求められることなく義とされます。神はこのキリストを自身とわれらの間に立てて、その血によって信じる者のため<罪を贖う供物>としたのでした。それはこれまでわれらが犯してきた罪を見逃して義を示さんとする神の行為です。神がいまこの時を選んで義を示したのは、自分の正しさを証明して見せ、かつイエスを信じる者を義とするためであります。
 人の誇りは信仰によって明らかとなります。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ロマ3:28)
 神はユダヤ人のみの神にあらず。これを忘れてはなりません。神は異邦人の神でもあるのです。なぜなら神は唯一だから。この神は割礼のある者を信仰ゆえに義とし、また割礼のない者をも信仰ゆえに義とします。
 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのであります。」(ロマ3:31)

 「ロマ書」最初のヤマ場であります。そうしてパウロの論弁もいよいよ好調です。律法をベースとしながらそこからはるかに高い次元で神の義を説き、より普遍的に申して義は信仰による、と喝破してみせます。ここを読んだときの衝撃と感銘、使徒パウロへの尊崇の念、いまでもよく覚えております……。
 最後に引用したロマ3:31については、フランシスコ会訳の訳文と註釈がわかりやすいので、恥も外聞もなく下に引きます、──
 訳「それでは、わたしたちは信仰によって律法を破棄することになるのでしょうか。決してそうではありません。それどころか、わたしたちは律法に真の価値を与えることになるのです。」
 註「神が人間に啓示と律法を与えたのは、結局は、人間の救いのためであった。人間の弱さの故に律法がなしえなかったことは、キリストへの信仰という新しい救いの計らいによって成し遂げられる」(P403)
 ……参照せよ、というロマ8:3-4を併読すると、なるほど、とより深く首肯するのであります。
 フランシスコ会訳聖書の註釈は地理や地勢、歴史の面ではまず頼りにならない、むしろ役立たずだけれど、こうした神学面になると流石の手際の良さを発揮します。
 なお、このフ訳でロマ3:25「罪を贖う供え物」は「贖いの座」と訳されております──。

 本日の旧約聖書はロマ3:4と詩51:6、ロマ3:10-12と詩14:1-3及び53:2-4、ロマ3:13aと詩5:10、ロマ3:13bと詩140:4、ロマ3:14と詩10:7、ロマ3:15-17とイザ59:7-8、ロマ3:18と詩36:2。



 わたくしは本ブログにおまけのようにくっ付いているエッセイやコラム、感想文の類を愛してくれる人を3人、知っている。が、おそらくは本ブログの読者の過半が聖書の箇所はすっ飛ばして、このパートを専らお読みいただいているような気がしてならない。いやはや、なんともありがたい限りだ。
 聖書の箇所は極端な話、消化して文章にすることの困難と疲弊を別にすれば毎日だって書いてゆける。種本は目の前に、堂々と存在しているのだ。それを粛々と消化してゆけばいいだけのことだ。それに引き換え、エッセイはそうもいかない。ネタは約1ヶ月以上をストックしていても、それを毎日毎日、タイ焼きを鉄板の上で焼く人のように一個の文章へ昇華させられるわけでは、残念ながら、ない。ネタだけでは原稿にならないのだ。
 ゆえに今日はエッセイ、休んじゃおうかな、と逃げ道を作ってそこへ退散する準備は怠らない。おい、といわれるかもしれないが、毎日のエッセイ執筆は常に困難の連続なのである。だけれどこんな悩みさえ原稿としてあげてしまう自分は、相当太々しいなぁ、と反省しているが、一向それは収まらぬのだからタチが悪いね。
 おかしいなぁ、以前はあとからあとからネタが湧いてきて、その日のうちに一編の作品となったものだったが。記憶は美化されるし、フィルターも掛けられちゃうから、いつもそうであったかと訊ねられれば、さてどうだったか、と、腕組みして考えこんでしまうのだが、それでも今日のような意味では苦労した覚えがないな。
 日々の出来事を優しく包みこんだ、でも相応にユーモアと毒を盛りこんだエッセイを書いてゆければ、それでじゅうぶんだ。理想は高く、現実は分相応に、でもちょっとだけ背伸びし続けて。そうやって毎日の思いを文章に封じこめられれば、いい。◆

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