第2079日目 〈ローマの信徒への手紙第5章:〈信仰によって義とされて〉&〈アダムとキリスト〉with村上春樹の新しい紀行文集『ラオスにいったい何があるというんですか?』が出るよ!〉 [ローマの信徒への手紙]
ローマの信徒への手紙第5章です。
ロマ5:1-11〈信仰によって義とされて〉
われらは律法によってではなく、信仰によって義とされました。われらはイエス・キリストを仲保者として、神との間に平和を得ています。われらはキリストのお陰で、恵みによる信仰に導かれています。そうして、神の栄光に与る希望を誇りとしています。
──まだわれらが弱く、罪人であった頃、不信心な者のためにイエス・キリストは十字架に掛けられて死にました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ5:8)
われらはキリストの血によって贖われ、義とされました。ゆえにキリストによって神の怒りから救われる。われらがキリストの敵であったときでさえ、イエスの死によってわれらは神と和解することができた。ゆえに御子の命によって救われる。──われらはイエス・キリストを通して(仲保者に立てて)神と和解したのです。
ロマ5:12-21〈アダムとキリスト〉
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ロマ5:12)
罪と死は実にアダムによってもたらされました。律法以前にも罪はあったのですが、罪が罪とされるのは律法の存在ゆえであります。アダムの時代からモーセの時代まで、アダムと同じような違反を犯さなかった人々の上にも死は厳然としてあり、人々を支配しました。来たるべき方を前もって表していたのがアダムだったのです。
が、恵みの賜物は罪と比較できるものでありません。
「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」(ロマ5:15)
裁判に於いては罪を犯せば有罪判決が下ります。が、恵みが働くときは多くの罪があると雖も無罪判決が下るのです。
「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ロマ5:17)
顧みれば律法の導入は罪の増加を促しました。が、罪が増えればその分、恵みはなおいっそう満ちあふれたのです。
「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ロマ5:21)
三浦綾子は「原罪」をテーマにした小説を幾つも書きました。「原罪」とはなにか。それは神により創造された人類が最初に犯した罪であり、エデンの中心にある知恵の実を神の言い付けに背いて(蛇にそそのかされて)アダムとエバが食べたことであります。アダムの子孫即ち人類はその罪を生まれながらに背負っており、自分の意思ではその罪から自由になれないのでした。
この原罪について、ロマ5でパウロは自分の考えを述べています。正直、わたくしの手に余った章でもあるのですが、つまりこういうことなのでしょう──人は生まれながらに罪人だけれども、キリストを仲保者として信仰ある者は神との和解を果たしており、神の恵みは信仰の義によって人々を支配している。わたくしはこのように解釈しましたが、勿論まるで見当外れの見解かもしれない。どなたか、心ある方の指摘を待ちたく存じます。。
本日の旧約聖書はロマ5:12aと創3:6及び19、ロマ5:12bと創2:17。
今年は村上春樹の新刊が既に2冊(『村上さんのところ』と『職業としての小説家』)も出ており、今月後半には新潮文庫から『雑文集』の刊行が予告されている。何年ぶりかの刊行ラッシュ、ファンとしては嬉しい限り。なかでもわたくしが待ち望んでいたのが、今年後半に刊行を予告されていた紀行文集なのだった。
そもわたくしは村上春樹をきちんと読むようになったきっかけは、紀行文集『辺境・近境』を手にしてこのような作物を書きたい、と望んだのがきっかけだった。公式な出発点が紀行文集だったためか、わたくしは未だ氏の著作のなかでは紀行文集をもっとも好む。床中の読書、暇つぶしの読書に手を伸ばす頻度も、紀行文集が多くなるのは必定というてよい。
さて、そんな村上春樹の、紀行文集としては11年ぶりの新作として刊行がアナウンスされているのが、11月21日予定の『ラオスにいったい何があるというんですか?』(文藝春秋)である。
本書には10編の紀行文が収められる、という。なかでもわたくしが鶴首して待つのは、アイスランドとフィンランドを巡ったときの文章だ。やはり自分が行ったことのある国が俎上に上せられると、この作家はあの国の風物をどのように観察して捉えたのだろう、と気になって気になってならなくなる。過度の期待は禁物だが、それでも否応なしにわたくしは一人勝手に、北欧2国の紀行を読む日を思うてヒートアップしておる。呵々。
同時に熊本で行われた読書会の文章も気になって仕方ないところだ。『CREA』2015年9月号に載った熊本旅行記(おでかけエッセイ)で触れていた、愛くるしい招き猫がいる、こじんまりしたセレクトショップ的書店で行った小さな小さな読書会(読まれたのは「ヤクルト・スワローズ詩集」なる短編であった、という。スワローズ・ファンクラブの会報に掲載されたものの全文)でのあれこれが、その文章に結実するのであろう。
いまから愉しみ……さて、これを読むのはいつの日になるかな。◆
ロマ5:1-11〈信仰によって義とされて〉
われらは律法によってではなく、信仰によって義とされました。われらはイエス・キリストを仲保者として、神との間に平和を得ています。われらはキリストのお陰で、恵みによる信仰に導かれています。そうして、神の栄光に与る希望を誇りとしています。
──まだわれらが弱く、罪人であった頃、不信心な者のためにイエス・キリストは十字架に掛けられて死にました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ5:8)
われらはキリストの血によって贖われ、義とされました。ゆえにキリストによって神の怒りから救われる。われらがキリストの敵であったときでさえ、イエスの死によってわれらは神と和解することができた。ゆえに御子の命によって救われる。──われらはイエス・キリストを通して(仲保者に立てて)神と和解したのです。
ロマ5:12-21〈アダムとキリスト〉
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ロマ5:12)
罪と死は実にアダムによってもたらされました。律法以前にも罪はあったのですが、罪が罪とされるのは律法の存在ゆえであります。アダムの時代からモーセの時代まで、アダムと同じような違反を犯さなかった人々の上にも死は厳然としてあり、人々を支配しました。来たるべき方を前もって表していたのがアダムだったのです。
が、恵みの賜物は罪と比較できるものでありません。
「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」(ロマ5:15)
裁判に於いては罪を犯せば有罪判決が下ります。が、恵みが働くときは多くの罪があると雖も無罪判決が下るのです。
「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ロマ5:17)
顧みれば律法の導入は罪の増加を促しました。が、罪が増えればその分、恵みはなおいっそう満ちあふれたのです。
「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ロマ5:21)
三浦綾子は「原罪」をテーマにした小説を幾つも書きました。「原罪」とはなにか。それは神により創造された人類が最初に犯した罪であり、エデンの中心にある知恵の実を神の言い付けに背いて(蛇にそそのかされて)アダムとエバが食べたことであります。アダムの子孫即ち人類はその罪を生まれながらに背負っており、自分の意思ではその罪から自由になれないのでした。
この原罪について、ロマ5でパウロは自分の考えを述べています。正直、わたくしの手に余った章でもあるのですが、つまりこういうことなのでしょう──人は生まれながらに罪人だけれども、キリストを仲保者として信仰ある者は神との和解を果たしており、神の恵みは信仰の義によって人々を支配している。わたくしはこのように解釈しましたが、勿論まるで見当外れの見解かもしれない。どなたか、心ある方の指摘を待ちたく存じます。。
本日の旧約聖書はロマ5:12aと創3:6及び19、ロマ5:12bと創2:17。
今年は村上春樹の新刊が既に2冊(『村上さんのところ』と『職業としての小説家』)も出ており、今月後半には新潮文庫から『雑文集』の刊行が予告されている。何年ぶりかの刊行ラッシュ、ファンとしては嬉しい限り。なかでもわたくしが待ち望んでいたのが、今年後半に刊行を予告されていた紀行文集なのだった。
そもわたくしは村上春樹をきちんと読むようになったきっかけは、紀行文集『辺境・近境』を手にしてこのような作物を書きたい、と望んだのがきっかけだった。公式な出発点が紀行文集だったためか、わたくしは未だ氏の著作のなかでは紀行文集をもっとも好む。床中の読書、暇つぶしの読書に手を伸ばす頻度も、紀行文集が多くなるのは必定というてよい。
さて、そんな村上春樹の、紀行文集としては11年ぶりの新作として刊行がアナウンスされているのが、11月21日予定の『ラオスにいったい何があるというんですか?』(文藝春秋)である。
本書には10編の紀行文が収められる、という。なかでもわたくしが鶴首して待つのは、アイスランドとフィンランドを巡ったときの文章だ。やはり自分が行ったことのある国が俎上に上せられると、この作家はあの国の風物をどのように観察して捉えたのだろう、と気になって気になってならなくなる。過度の期待は禁物だが、それでも否応なしにわたくしは一人勝手に、北欧2国の紀行を読む日を思うてヒートアップしておる。呵々。
同時に熊本で行われた読書会の文章も気になって仕方ないところだ。『CREA』2015年9月号に載った熊本旅行記(おでかけエッセイ)で触れていた、愛くるしい招き猫がいる、こじんまりしたセレクトショップ的書店で行った小さな小さな読書会(読まれたのは「ヤクルト・スワローズ詩集」なる短編であった、という。スワローズ・ファンクラブの会報に掲載されたものの全文)でのあれこれが、その文章に結実するのであろう。
いまから愉しみ……さて、これを読むのはいつの日になるかな。◆