第2086日目 〈ローマの信徒への手紙第9章&第10章1/2:〈イスラエルの選び〉、〈イスラエルと福音〉他with<土屋太鳳は毬江役にぴったりですね及びその他の話題〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第9章と第10章1/2です。

 ロマ9:1-18〈イスラエルの選び〉
 キリストに結ばれた者として、わたしは真実を語る。偽りは口にしない。わたしには深い悲しみがある。心には絶え間ない痛みがある。わたしの良心が聖霊によって証ししてくれることでも、それはわかります。
 わたし自身、兄弟たち即ち肉による同胞のためならば、キリストに厭われても構いませんし、離されることも覚悟しています。
 かれらはイスラエルの民であります。神の子としての身分や栄光、契約、約束、礼拝、それから律法はイスラエルの民のもの。が、イスラエルから出た者が皆イスラエル人というわけではなく、アブラハムの子孫だからとて皆がその子供というわけではありません。かつて神がアブラハムに告げた言葉(来年のいま頃わたしはここに戻ってくるが、その頃あなたの妻サラは男の子を生んでいる)からもわかるように、「肉による子供が神の子供なのではなく、約束によって生まれる子供が子孫と見なされるのです。」(ロマ9:8)
 また、その子イサクが長じてリベカを娶り、なかなか懐妊しない彼女のために祈った結果、子を授かるにあたって神に告げられた言葉の通り(兄は弟に仕える)、2人の長子エサウは弟ヤコブの下に従く者となったのでした。
 これらのことが明らかにするのは、自由な選びによる神の計画が神自らによって進められるのだ、ということです。神の不義ゆえではありません。既に神は出エジプト後のモーセに、わたしは憐れむ者を憐れみ、慈しむ者を慈しむ、というています。人の行いによってではなく、神の憐れみ、神の慈しみによって事は為されるのです。ファラオの存在も偏に神が御名と御業を全世界へあまねく知らしめるためでしかありませんでした。
 「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ロマ9:18)

 ロマ9:19-29〈神の怒りと憐れみ〉
 「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(ロマ9:22-24)
 このことは預言者ホセアの書にも記されています。
 また、預言者イザヤはイスラエルについて、その数は浜辺の真砂の如くになろうとも、神はその残りの者を救う、しかも神は地上に於いてすみやかにそれを実行する、と述べています。そのことはイザヤ自身、その書のなかで告げている通りなのです。曰く、もし万軍の主がわれらのためにわずかでも生存者/子孫を残してくれなかったら、われらはソドムのように、ゴモラのようになっていたことであろう、と。

 ロマ9:30-10:4〈イスラエルと福音〉
 結局のところ、義を求めなかった異邦人が義とされ、信仰による義を得たのです。一方でイスラエルは義の律法を追求したにもかかわらず、否、追求したがゆえにこそ、その律法に到達することができませんでした。どうしてでしょう? それは、信仰によってではなく、行いによってこそ律法へ達することができる、と考えたからであります。つまり、預言者イザヤもいうたように、かれらは躓きの石に躓き、妨げの岩に妨げられたのです。
 イスラエルは熱心に神に仕えています。が、誤った認識に基づいて仕えている。かれらは神の義を知らない。自分の義を求めて神の義に従おうとしなかったからであります。
 「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ロマ10:4)

 わたしには深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがある、とパウロはいう。創作なのか、本音なのか、すこぶる判然としませんが、本書簡には珍しくパウロの人間らしさが垣間見える瞬間でありますね。かれが自分の胸の内を他に明かしたのは、ローマ行きの希望を述べ、本書簡の執筆の契機や背景を津宛てた箇所ぐらいです(ロマ1:9-15,15:22-29)。それだけにここは、続く同胞のためならキリストから離れたって構わぬ、と啖呵を切るところと併せて、読後妙に印象の残る箇所となっているのであります。
 神の言葉は決して効力を失っていない、と前置きした上で、パウロはアブラハムとイサクの子供が生まれる以前、神がかれらへ告げた言葉を例にして、神の子たるの証しは行いによってではなく約束によってである、と説きます。前章で触れた予定説の補強というてよいと思いますが、ここではすこし視点を変えて神の憐れみや怒り、異邦人の信仰による義といった話題も交えて、より普遍的なお話としてパウロは持論を発展させているようであります。憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ──モーセへの神の言葉はパウロにとって、わが思うところの正しさの拠り所となったのではないでしょうか。
 本章は第8章と並んで、「ローマの信徒への手紙」の中核を為すというてよいはずであります。

 本日の旧約聖書はロマ9:7と創21:12、ロマ9:9と創18:10及び14、ロマ9:11と創25:23、ロマ9:13とマラ1:2-3、ロマ9:15と出33:19、ロマ9:17と出9:16、ロマ9:25とホセ2:25、ロマ9:26とホセ2:1、ロマ9:27-28とイザ10:22-23、ロマ9:29とイザ1:9、ロマ9:33aとイザ8:14、ロマ9:33bとイザ28:16。



 録画しておいた『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』を観ていたら、……確かに土屋太鳳は毬江ちゃん役に最適な女優さんやな、と思いました。まだ朝ドラ放送中に本作のアナウンスがされたときは、双方のイメージが結びつかず、「え?」と小首を傾げましたが、今回放送された完成品を観て、つくづく自分の誤った思いこみに反省させられました……。
 閑話休題。
 『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』を観ていたら、なぜだか急に『レインツリーの国』の単行本が欲しくなりました。文庫で持っていて、何度も読み返している有川浩の作品中いちばん愛着のある小説なのだが、ほら、堀北真希もいうように、好きな作品は単行本でも文庫本でも持っていたい、という気持ちの表れですよ。有川作品中、好きな作品は幾つもあれど、文庫本だけでなく単行本も(できれば帯附きで)手元に置いておきたい、と願うたのは、いまのところこの『レインツリーの国』だけでありますよ。
 まぁ、『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』に於いて大きな意味を持つアイテムとなる『ネムノキに降る雨』のオリジナルが『レインツリーの国』だから、という単純な理由もあるにはありますが。──願いはいつ、どのような形で発露するか、そんなことは誰にもわからない、ということでありましょう。
 こっそりといわせてもらえば、タイトルが『ネムノキに降る雨』に変更された表紙カバーも欲しいけれど、これは関係者にツテがなかったり、偶然オークションに出ている場面に遭遇してお金に糸目をつけずに落札するぐらいの勢いと覚悟がないと駄目でしょうけれど、ね。
 ──斯くしてわたくしは翌日からブックオフや古本屋を訪ねて『レインツリーの国』の単行本を探すことになりました。が、どこにも見当たらない、という事態に遭遇して困っております。どうしてだろう、と考える必要はない。かつてドラマ『ビブリア古書堂の事件手帖』で取り挙げられた本が放送直後に売り切れたのと同じ事態が、このときも発生したのであります。放送前はブックオフでも数冊は転がっていたものだがなぁ……。いまの『猫旅レポート』や『キャロリング』みたいにね。というわけで、どなたか帯附き美品の『レインツリーの国』単行本をお恵みくださいませ。えへ。◆


-15/11/08 23:15 +42

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