第2090日目 〈ローマの信徒への手紙第13章:〈支配者への従順〉、〈隣人愛〉他with読みたくて、傍らに置きたくて、;有川浩『ストーリーセラー』〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第13章です。

 ロマ13:1-7〈支配者への従順〉
 現世の権威に従いなさい。その権威は神に由来し、国家の権力機構は神があつらえた道具なのですから。権威に背くことと神に背くことは同義です。それは即ち、わが身を裁きへ委ねることでもあります。
 善を行っているうちはそれ程でもないが、悪を行ったらば、支配者はたちまち恐ろしい存在に変わります。あなたが願うのは、権威者を恐れずに済む方法。ならば、──
 「それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。」(ロマ13:3-5)
 あなた方へ課された納税義務についても然り。権威者はあなた方から徴収した税を神への貢ぎ物としてささげます。かれは<権威者>という立場の者に課された義務を果たしているのです。
 「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。」(ロマ13:7)

 ロマ13:8-10〈隣人愛〉
 互いに愛し合うこと。これ以外の借りは、誰に対しても作ってはならない。
 心に刻んでおいてください、──
 「どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのものです。」(ロマ13:9-10)

 ロマ13:11-14〈救いは近づいている〉
 あなた方はいまがどのようなときなのか、ご存知のことでしょう。眠りから覚めるべき時が、既に近附きつつあります。救いは、われらが信仰に入った頃よりも近くへ来ているのです。
 「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ロマ13:12-14)

 皇帝のものは皇帝に返しなさい。神のものは神に返しなさい。──イエスが福音書で述べた言葉が思い出されることであります。税についてもイエスは弟子たちに語ることがあった、と記憶します。パウロが斯く発想する原点がかのイエスの言葉と教えにあるのは当然ですが、実はこれ程明瞭に、「ローマの信徒への手紙」に於けるパウロ神学と福音書が伝えるイエスの言行を結び付ける<糸>が見えるのは、ちょっと珍しいことのように思えてなりません。
 ここでいう「従順」とはけっして現世の権威を絶対的なものと仰いで、頭を垂れて唯々諾々と従うことではありません。この世の権力構造とその頂点に位置する権威者とは、いわば神の直接統治に代わるものであり、また権威者は神の代理人であります。剣の下の裁きから肉体と精神、信仰を守るため、そうしてあなたの良心のためにも、善を行って徳を積みなさい。そういうのであります。
 権威者の怒り=神の怒りを被らないために、限定された範囲のなかで!
 ロマ13:1-7〈支配者への従順〉を読みながら、脳裏にルターの『現世の主権』を倩想起したのは一人、わたくしのみでありましょうか──?
 すべての人に対して自分の義務を果たせ。──頭を深く垂れて謹聴、噛みしめて心の糧としたい言葉です。
 どんな掟も隣人愛に要約される。──正直なところ、素直には頷きかねます。本当にそういえるのかなぁ、と。
 酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨てよ。欲望を満たす目的で肉に心を宿して動くなかれ。──ともすれば、意思が一時の情念と欲望に敗北を喫することしばしばであるわたくしにとって、この言葉は強烈です。そうして、鮮烈です。生きてゆく上で「七つの大罪」とまったく無縁であること、十戒/律法に盲目的に従順でいられるなど、できようはずはありませんから。
 安倍政権がどれだけこの国の秩序や教示、理念や歴史や伝統を蔑視し、破壊し、無知であろうと、それでも日本はまだ法治国家であります。ゆえに社会の規範、根本には法律があります。われらはこの法律と無縁で生きてゆくことはできないのであり、これを犯すことは即ち権威者の裁きに委ねられるわけです。洋の東西、時代は隔てたとしても、本章が提示するメッセージは極めて今日的です。
 話を元に戻せば、どれだけ小市民的に生活しようと、罪と無縁で、如何なる法規に抵触しない生活など送れようはずはありません。それができるようになればいちばん良いのかもしれませんが、違反者やアウトローの存在しない社会など、いったいあり得ましょうか? ユートピアは<煉獄>の別称であります。
 如何に善と悪のバランスを取って人生を過ごし、死後に誰彼から、──
 「かれは生きているとき、全き善人とはいえないが、人の役に立つことをしたし感謝されることもした。褒められるようなことも、幾つかした。一方で全き悪人ではないけれど、それなりに──小市民的に──ルールから外れたこともしたし、細かく見れば法律に抵触するようなこともしでかした。が、改めてかれの人生を振り返ってみるならば、プラスマイナスゼロの人生で、何事にも大過なく過ごし得た人であった。まぁ、諸々検証すればプラスの方がマイナスよりちょっと優った人生を送った人であった。うん、憎めない人だったな」
──と顧みられれば良しとするか、だと思うのであります。シェイクスピアの戯曲やヴェルディのオペラでお馴染みなフォルスタッフ(ファルスタッフ)みたいですが、かれは一つの典型だと思います。

 本日の旧約聖書はロマ13:9aと出20:13-15及び申5:17-19と21、ロマ13:9bとレビ19;18。同節の参考として、マタ22:39とマコ12:31並びにルカ10:27。



 有川浩『ストーリーセラー』(新潮社)を買いました。ずっと買うのを迷った本で、そのたび文庫になるのを待とう、と決めたにもかかわらず、今日こうして単行本を購入した理由ですが、その1つとしてやはり先日の『図書館戦争 ブック・オブ・メモリーズ』の存在があったのは否定しない。
 観たあとで『レインツリーの国』を読んだ人は非常に多いと思うが、わたくしは全国の人々がおそらくは同じ時間にそれを読んでいるであろう連帯感を気持ちの片隅に置きながら、その物語にキュンキュンしつつ、一方では検討しては諦めた『ストーリーセラー』が読みたくて、傍らに置きたくて仕方なくなっていたのである。それゆえの単行本購入でありました。
 文庫化まで待とう、と考えたのは、作者が『図書館戦争』や<自衛隊3部作>などの文庫化の際、元版に加筆修正を加えていることがしばしばであり、またそれの為された版こそ作者の意思が反映した暫定的かもしれないが最終形態であるならばそちらを尊重しよう、という考えあるがためである。……が!
 しかし、単行本発売から既に約4年が経過、未だ新潮社は『ストーリーセラー』の文庫化に踏み切らない。あとから刊行された『ヒア・カムズ・ザ・サン』は疾うに文庫になっているのに……。実は既に文庫化の連絡はされており、それに伴い作者が他の作品同様、加筆修正を施しているのかもしれない。刊行から約4年と雖も未だ売れ行き好調、順調に版を重ねている作品だから、新潮社はまだまだ単行本だけで行ける、と思うているのかもしれない。或いは『レインツリーの国』が前例を作ったように、他社への版権移動の手続き中なのか、若しくは他社からの版権移動の要求・督促という名の「お願い」と<戦争中>なのか。呵々。
 だがしかし、最早それは自分にとってもどうでもよくなってきている。読書熱が頂点に達した時点で目的の作品を買ってしまったのだから、あとは野となれ花となれ。購入の翌月に文庫化されたりしはしまいか、と『ダ・ヴィンチ』誌の新刊文庫カレンダーを見て戦々恐々としたわたくしなのである。結果は、まずは安堵。ほっ。◆

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