第2091日目 〈ローマの信徒への手紙第14章:〈兄弟を裁いてはならない〉&〈兄弟を罪に誘ってはならない〉withもう、この子ったらホントに手が掛かるんだから!〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第14章であります。

 ロマ14:1-12〈兄弟を裁いてはならない〉
 信仰の強い人は信仰の弱い人を受け入れなさい。相手の考えを批判してはならない。食べられる人は食べられない人を軽蔑してはいけませんし、食べられない人は食べられる人を裁いてはなりません。神はどのような人であっても自分の元に受け入れているのですから。また、誰であれ、他人の召使いを裁くことはできません。なんという思い上がりでしょう、いったい裁きを受け持つ人は自分が何者と勘違いしているのでしょう。
 「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(ロマ14:5)
 食べるも食べぬも主のために。特定の日を重んじるも主のために。いずれも神への感謝から。
 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ロマ14:7-9)
 それでもなお兄弟を裁き、侮ったりするとすれば、いったいそこにはどのような理由があるのでしょう。われらを裁くはただ神のみであり、われらは等しく神の裁きの前に立つのです。預言者イザヤはその書のなかで、すべての膝はわたしの前に屈み、すべての舌はわたしを誉め讃える、というています。さよう、われらは神の前に立ってのみ、自分について述べることができるのであります。もう互いを裁くのはやめましょう。

 ロマ14:13-23〈兄弟を罪に誘ってはならない〉
 われらが為すべきは、兄弟が歩くその前につまずきとなるようなものを置かないことです。それ自体で汚れたものなど何一つありません。汚れたものだと思うならば、それは、その人にとってのみ汚れたものなのです。他の人には汚れたものではありません。
 食べるものについても然り。食べ物それ自体に悪いところはありません。その食べ物がもし悪とされるならば、それは、食べた人が悪事を働いた場合であります。悪を行った人が食べたということでその食べ物は件の人物にとって悪いものとなったのです。食べ物それ自体に悪いところはありません。
 「あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」(ロマ14:16-19)
 「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」(ロマ14:22-23)

 1つ1つの物に汚れや悪など、ない。或る物が悪く受け取られたり、汚れた物と見做されるのは、どんな場合でもそれを用いる人間の言動、思惑による。あなた方は兄弟に対して心清くあれ。パウロは本章後半にて斯く語りかけます。
 今日のわれら、否、人類の歴史そのものを顧みて、このパウロのメッセージは古今東西に適用させられましょう。いちばんわかりやすいのは<言葉>かもしれません。言葉それ自体に悪いところなど何一つない。それを悪いものと思うたり、汚れたものと思う人は、まずいないでしょう。時と状況と心によって、同じ言葉で他人を癒やすこともできれば、逆に人を窮地に追いこむことだってできるのです。物理的に殺害することも可能であります。
 電脳空間リテラシーが未だ整備・確立されていない現在、インターネットの掲示板やSNSを舞台にして、あらゆる悪意を孕んだ言葉が氾濫し、それを用いた(時には「正義」を騙った)事件が飽きもせず発生していることを思えば、何人と雖も言葉を使うことに慎重になるべきであります。想像力を駆使して、その言葉が理に適ったものか、果たして用いねばならぬ言葉なのか、それを受け取ったとき相手はどのような思いを抱くであろうか、などと自らに問いかけるべきであります。
 われらは言葉の使い方に無神経であってはなりません。自戒をこめて、ここに書きます。
 <兵器>もわかりやすい例かと思い、引き合いに出そうか、と考えたのですが、黙考して、それはやめることにしました。兵器が製造される目的は、人を殺戮するため、傷を負わせるためでしかありません。兵器は常に抑止力として存在するものでもありますが、一旦均衡が崩れたらば大量破壊兵器に早変わりし、多数を殺戮・死傷させるための道具になり果てます。「兵器の存在が平和をもたらす」と曰う人々が実際に存在しますが、それは詭弁です。本来の目的から他人目をそらすための方便であります。その言葉はゴミ箱の蓋に等しい。とはいえ、それを完全否定し、それを絶対悪と断言することができないのは、かの詭弁が事実の隠された一面を的確に指摘しているのが瞭然であるからです。いやはやなんとも。

 本日の旧約聖書はロマ14:11aとイザ49:18、ロマ14:11bとイザ45:23-24。



 昨晩、iMacのディスプレイにずいぶんと埃が付着していたので、精製水とマイクロファイバー・タオルで掃除しました。それはそれは丁寧に、何度も何度も、拭き跡が完全になくなるまで。いったい何度、ディスプレイの表面を撫でさすったことか!
 様々な角度からライトをあて、チェックするたびに拭きムラや塵埃を発見し、その度またマイクロファイバー・タオルで拭き拭きし。なんとか拭きムラ、拭き跡を消してみても、どうしたって塵や埃は宙を舞ってディスプレイに付着する。こいつらどこかで磁力でも発しているんじゃないか。
 斯くしてどうにかこうにかその約9割を除去して、満足のゆく綺麗さを取り戻したiMac。それを前にして胸を張り、勝ち誇ったような笑みと安堵の溜め息を吐いて、ふと壁の時計を見あげると、作業開始から2時間近くが経過している。映画1作、鑑賞できてしまう時間を、わたくしは目の前の真っ暗な、惚れ惚れするぐらいに黒々したiMacのディスプレイ掃除に費やしていたのだ。そこに悲壮感はない。打ちひしがれた感もない。あるのは使命を完遂した、一種の満足感である。
 ……ああ、もうまったく、手が掛かる子ほど愛おしい、って本当だね。これでまた数日後にはぞろディスプレイ掃除に勤しんでいるんだよね。いやはやなんとも。◆

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