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第2092日目 〈ローマの信徒への手紙第15章:〈自分ではなく隣人を喜ばせる〉、〈ローマ訪問の計画〉他withクトゥルー神話小説のネタが生まれたよ。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第15章です。

 ロマ15:1-6〈自分ではなく隣人を喜ばせる〉
 強い者は自分の満足を求めず、強くない者の弱さを担うようにしなくてはなりません。善を行い、隣人を喜ばせることで互いの向上に努めようではありませんか。キリストも自分の満足は求めなかったのです。
 聖書に書かれた事柄は、いずれもわれらを教え導くためのものであります。われらは聖書から教えと忍耐を学び、聖書を読むことで希望を持つのです。
 どうか忍耐と慰めの源である神があなた方に、かつてイエス・キリストが神に対して持っていたのと同じ思いを抱かせ、声を揃えてわれらが主の神にして父である方を、讃えさせてくれますように。

 ロマ15:7-13〈福音はユダヤ人と異邦人のためにある〉
 神の栄光のためキリストがあなた方を受け入れたのと同じように、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(ロマ15:7)
 キリストは神の真実を現すため、割礼を受けた者即ちユダヤ人に仕える者となり、先祖に与えられた約束の確かな証しとなりました。また、異邦人に対してはかれらが神の憐れみゆえに神を讃えようとしました。これらのことは聖書のなかに、たとえば詩篇や預言者イザヤの書に記されています。
 「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ロマ15:13)

 ロマ15:14-21〈宣教者パウロの使命〉
 ローマの兄弟たちよ、あなた方は1人1人が善意に満ち、あらゆる知識を内に蓄え、互いに相手を戒め合うことができる、とわたしは信じています。それがためにわたしはこの手紙のなかで、ときどきかなり思い切ったことを発言したのであります。
 わたしは神の恵みを得て異邦人のためにキリスト・イエスへ仕える者となり、神の福音のため祭司の役を務めるのです。というのも、聖霊によって異邦人が聖なる者となり、神に喜ばれる供え物となるためであります。
 「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」(ロマ15:17-19)
 斯くしてわたしはエルサレムからイリリコン州までの地域を巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えることになりました。キリストの名が知られていない地域に向かって熱心に、その福音を宣べ伝えたのでした。かつて預言者イザヤの書になかに、かれ(イエス・キリスト)のことを告げられていなかった人が見、聞いたことのなかった人が悟るだろう、とあるように、他人の築いた土台の上にキリストの福音が立てられたりしないようにするために。

 ロマ15:22-33〈ローマ訪問の計画〉
 この手紙の冒頭の方でも述べましたが、わたしはあなた方のいるローマへ行きたい、とずっと望んでいました。最早こちらにはわたしが宣教して回らなくてはならない場所はなく、また現在イスパニア行きの計画を立てていますので、その途次にでもローマへ寄ってあなた方に会いたいと希望しているのです。あなた方と共にいる喜びを味わい、そうしてからイスパニアへ出発したいのです。
 が、いまはエルサレムへ行くことを優先しなくてはなりません。というのも、マケドニア州とアカイア州の人々がエルサレムにいる<聖なる者たちのなかの貧しい人>を援助するため、義援金を集めてわたしに託したからです。わたしはこの役割を、まずは果たさなくてはなりません。そのあとでイスパニアへの旅行を実現し、キリストの福音をあふれる程に携えてローマのあなた方へ会いに行くこととします。
 異邦人がエルサレムのユダヤ人のために……、と、あなた方は驚かれるでしょうか。そうかもしれません。しかし、異邦人にはそうしなくてはならない理由があるのです。「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」(ロマ15:27)──これが理由です。
 ローマの兄弟たちよ、われらが主イエス・キリストによって、“霊”を与えてくれる愛によって、わたしのために祈ってください。わたしと一緒に祈ってください。不信心なユダヤ人の陰口と陰謀と暴力からわたしを守り、エルサレムへのわが奉仕が聖なる者たちから歓迎されるように、どうか祈ってください。そうしてわたしが喜びのうちにあなた方の許へ行き、ゆっくりと憩うことができるように、どうか祈ってください。
 「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」(ロマ15:33)

 実質的に「ローマの信徒への手紙」は本章にて擱筆されました。続く第16章はこの時代の書簡の定型というてよいらしい、著者からの挨拶であります。
 これまで縷々と述べられてきた教えの総括であり、それは煎じ詰めれば<隣人愛>となる点、第13章と同じというてよいでありましょうか。本章でそこに加わる新しい要素があるとすれば、ユダヤ人、異邦人の別なく実践される隣人愛によって自己を高め合う、という一種の「相互補完」かもしれませんね。
 が、個人的に本章のいちばんのキモは、既に〈前夜〉などで触れてもいたパウロのローマ訪問希望の件りであります。ここを読んでわかることですが、パウロの目はローマのずっと西方へ向けられていました。そこにはまだ、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせ」(ロマ15:20)るため、熱心に宣教に努めるに足る地だったからであります。パウロはまだイスパニアで異邦人のための宣教師として活動できる、と踏んでいたのであります。それは何事もなければ、きっと実現されていたことでありましょう……。
 その路程の途中にあるローマは勿論ローマ帝国の帝都であり、ローマ市民権を持つパウロとしては一目見ておきたい場所だったでありましょう。一方で──こちらの方がより強く望んだ事柄でありましょうが──自分が設立に携わっていない教会を実見したい、そこに集う信徒たちと会い、膝を接して話をしたかったでありましょう。もとよりローマでの宣教を伝道旅行中に随伴者へ洩らしていたパウロですから、その希望を書簡に認めるのは至極当然な流れである、と思います。もっとも、護送という形を取ってのローマ入りがかれの望むところであったかは定かではありませんが。
 ロマ15:26「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです」の背景は「使徒言行録」にはなく、このあとに読む「コリントの信徒への手紙 一」第16章第1-4節と「同 二」第8-9章にてパウロが報告しているところであります。
 当該箇所の読書となった際に改めて触れることもあるでしょうが、ここで背景を要約しておきますと、経済的に困窮したエルサレム教会に対して、まずマケドニア州の諸教会が、次いでそれに刺激を受けるようにしてアカイア州各地の教会が、自発的に、「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしい」(二コリ8:4)とパウロとテトスに願い出て、その成果は終わってみれば予想以上のものだったのであります。パウロがロマ15:25でエルサレム行きを優先する旨いうておるのは、かれがマケドニアとアカイアで集まった義援金をエルサレム教会に運ぶためなのであります。
 ──おそらくはこの一点を最大の根拠として、パウロの<主要書簡(<4大書簡>)>の執筆順が決まっていったのでしょう──
 なお、パウロが自分の宣教旅行の範囲の西端としてあげるイリリコン州ですが、バルカン半島西岸一帯の、アドリア海に面した地域とのみしかいまはわからず、現代でいえば旧ユーゴスラビア、アルバニア、北部ギリシアのどこかとしか申しあげないのが正直なところ。もう少し調べてみて、わかったら改めてご報告させていただきましょう。

 本日の旧約聖書はロマ15:3と詩69:10、ロマ15:9と詩18:50及びサム下22:50、ロマ15:10と申32:43、ロマ15:11と詩117:1、ロマ15:12とイザ11:10、ロマ15:21とイザ52:15。



 久々にクトゥルー神話小説のネタが思い浮かんだのである──仕事中、日本地図を見ているときに。日本人青年とダゴン幼生(という表現は当たっている?)の種族(!?)を越えた感涙必至(呵々)の友情物だ。
 簡単にプロットを作ってみたのだけれど、コメディと呼ぶより他にない代物になりそうで、思わず嘆息、頭を抱えた。プロヴィデンスの郷紳はきっとこうした風味の神話小説、構想すらもし得なかったろうなぁ──!
 ちかごろわたくしが書こうと思う小説は、多くがユーモア小説のカテゴリーに収められてもふしぎのない作品になりがちだ。本心ではウッドハウスや佐々木邦と同じジャンルの創作を切望している、ということなのかなぁ。でもこのジャンルは恋愛小説よりも難しいよ。タメイキ。◆