第2129日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第1章:〈挨拶と感謝〉、〈一致の勧め〉&〈神の力、神の知恵であるキリスト〉with青空文庫で伊良子清白を読みました。〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第1章です。

 一コリ1:1-9〈挨拶と感謝〉
 わたし使徒パウロと兄弟ソステネから、キリスト・イエスにより聖なる者とされた、また、召されて聖なる者となったコリント教会の信徒たちへ。
 あなた方はキリストによって結ばれ、あらゆる言葉とあらゆる知識に於いて、すべての点で豊かにされています。結果、あなた方が賜物について欠けるところはなに一つ、ありはしません。主は最後まであなた方を支えてくれることでしょう。
 あなた方は真実なる神により主キリスト・イエスとの交わりへ招き入れられたのです。

 一コリ1:10-17〈一致の勧め〉
 さて実は、わたしはクロエの家の人たちからあなた方の間に或る諍いがあると聞きました。なんでもあなた方はそれぞれに分派しているそうですね。曰く、自分はパウロ派だ、アポロ派だ、ケファ(ペトロ)派だ、挙げ句にキリスト派だ、などと。
 いったいキリストは幾つにも分かれてしまったのでしょうか。わたしがいつ、あなた方のために十字架へ架けられましたか。わたしがいつあなた方のために洗礼を授けましたか。わたしはクリスポとガイオ、ステファナの家の人々以外に洗礼を授けたことはありませんよ。
 「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(一コリ1:10)
 「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」(一コリ1:17)

 一コリ1:18-31〈神の力、神の知恵であるキリスト〉
 預言者イザヤはその書のなかで、知恵ある者の知恵は滅び、賢者の賢さを無意味なものにする、てふ神の言葉を伝えています。われらのような救われる者に十字架の言葉は神の力です。が、滅びゆく者にそれは愚かしいものとしか映りません。
 果たしてこの世のどこに知恵ある者が、学者が、論客がおりましょうや。世は自分の持てる知恵で神を知ることはできなかった。ゆえに神は、宣教なぞという愚かなやり方を取って信じる者を救おうと企てたのであります。
 ご存知でしょうが、ユダヤ人は徴を求め、ギリシア人は知恵を探します。が、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えて」(一コリ1:23)いるのです。それはユダヤ人にも異邦人にも障害物でしかなく、また愚かしいものでしかありません。しかしわれらは相手がユダヤ人であろうと異邦人であろうと、「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(一コリ1:24)
 コリントの兄弟たちよ。キリストにより召されて聖なる者となったときのあなた方は、けっして人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や良家の出身であったわけでもないはずです。
 神はこの世の知恵ある者、良家の者、地位ある者に恥をかかせるため、この世の無学な者、貧しき者、無力な者を選びました。卑しい者、見下される者を選びました。これは、かれらが神の前に立ったとき、自らを誇ることがないようにするためです。
 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖の贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(一コリ1:30-31)

 後半部に於いてパウロは、世のエスタブリッシュメントな人々に恥をかかせるため、いい換えればかれらの権威や出自、教養や職能を無効化するため、対極の位置にあるともいえる者たちを選んだのだ、と説きます。
 わたくしはここを読んだとき、詩118:22を出典とする<隅の親石>を思い出しました。既に共観福音書や「使徒言行録」で見たように、これはイエス・キリストのことであります。顧みられることの(殆ど)ない取るに足らぬ者が後に重要な役回りを担う、という意味合いですが、パウロはここで、やはり顧みられることが殆どない、一般的には無視されたり、軽んじられたり、蔑まされたり馬鹿にされたり、そうした人々が神によって選ばれ、この世のエスタブリッシュメントな人々、インテリ階層の人々、権威者よりも大事にされるのだ、と主張するのであります。<神の前に万人は平等>という理念を明らかにする考えと申せましょう。とてもあたたかみのあるメッセージではありませんか。
 宣教を「愚かな手段」というパウロならではの逆説的見解も、またそれについて考えるのも、本章の読み処、読書の醍醐味の一つといえましょうね。

 本日の旧約聖書は一コリ1:19とイザ29:14、一コリ1:31とエレ9:23。



 いつもリュックのなかに入れて、会社の往復時や外での原稿執筆の区切りのときに読む本があります。自宅にいる折は滅多に取り出すことはないのですが、昨夜は偶さかそれを布団のなかで読んだのです……なにがいいたいかといえば、翌る日、わたくしはそれをリュックに入れ忘れたまま出勤してしまった、ということであります。本をリュックに戻し忘れたと気附いたのは、嗚呼、ホームで電車を待っているときでありました。
 『バーナード嬢曰く』第2巻に於ける神林しおり嬢に刺激されたわけでも、能う限り最上の読書環境の構築に勤しむ彼女の姿を脳裏に描いたわけでもなんでもないが、iPhoneを取り出して青空文庫を開いて、ダウンロード済みの作品を瞥見した後読みかけの詩集を会社の最寄り駅に到着するまでの間、読み耽った。おまけにその朝、わたくしは坐ることができなかった。
 詩集の書名は『孔雀船』、作者は伊良子清白である。生田耕作先生偏愛の詩人の1人であった近代文学最上級の人の詩集が、まさか電子書籍で読めるなんてなぁ……。嬉しいけれど、ちょっと微妙。なお、品切れの様子だが岩波文庫にも入っているので意欲ある方はお探しになってみては如何か。
 その朝は『孔雀船』から「夏日孔雀賦」でありました。そうしてわたくしの心を貫くような一節に出会った、──
 時は滅びよ日は逝けよ/形は消えよ世は失せよ/其處に残れるものあり/限りも知らず極みなく/輝き渡る様を見む。
 詩のいうジャンルの作物は一般的に申しあげて、青空文庫など電子書籍で読むにさして支障を感じぬ、違和感なきものなのではあるまいか。程よき余白が確保できるからこそ、なおのこと、一層に。すくなくともわたくしには、散文よりも詩の方がスマホやタブレットで読むにいちばん目に負担なく、また集中して読めると実感されるのでありますよ。小説はちょっと長いものになるともうまったく以て駄目だった。ちょっと長いとはいうても実際は短編で、紙にすればページ数もさほどではないはずなのに、なんだろうね、モバイル端末で読むことの負担増は?
 この件について検証は継続されるべきだろうけれど、この思いがあまり変化することはないのではないか、と思うております。◆

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